読んで、忘れて、思い出す(こともある)
2024年 02月 11日

土曜日、夫を誘ってサイクリング。
お昼までたっぷりボランティア活動で体動かしてから、午後は調布の深大寺周辺をぶらぶらした。


深大寺厄除元三大師を参拝して、参道をぶらついて、蕎麦食べて。
夫が御朱印帳をお寺で新調したら、こちらもどうぞお読みくださいねと、けっこうページ数のある綺麗な小冊子がオマケについてきて得した気分。たぶん参道の歴史とか、元三大師の鬼化エピソードとか、近藤勇、水木しげるあたりが載ってたりするのかな。楽しみ。後でゆっくり読もうっと。
そこから温泉までサイクリングして、夜までのんびりお湯に浸かる。
濃い蒸気でミルクみたいに真っ白な視界しかない塩釜風呂で、なんだっけ、むかーし読んだ、サウナで恍惚のうちに死にむかってく小説を思い出したりして。あれは何の本だっけ……黒い肌、オリエンタルなサウナ、同性愛、暴力のモチーフだから……うーん、ボウルズかバロウズかな。イメージの欠片はチラチラ浮かぶけど、昔読んだ本って年を経るうちに全部まぜこぜの一個の塊になっちゃって、正確に分離できない。


芯まで十分に温まった後、冬の夜をサイクリングして家まで帰る。手足の先まで厚着でラッピングされてるから、帽子から出た冷たい髪の先も頬も露天風呂の続きの気分。
家について珈琲淹れて、早速お寺でもらった冊子のページを開いたら、なんか思ってたものと違って「ん?これは何の冊子だ?創作モノなの?」とちょっと戸惑った。どうも深大寺を舞台にしたラブストーリー短編公募選集っぽい。最後に載ってる選者の講評、井上荒野のがピリッと辛口で面白いや。浮ついたお話にビシッと釘を刺す感じ。でもなー、公募テーマが深大寺に絡めた恋物語ってことっぽいから全体的にフワついちゃうのも仕方ない気もするけどな。やっぱこの辛口には、父・光晴とその愛人・寂聴のこととかも影響してたり……なんてつい想像を走らせてちょっと自分を恥じる。

よく考えたら、井上荒野って、読んだことがないんだった。
さらに言えば、井上光晴もたぶん読んでない。映画『全身小説家』を観て少し知った気になってるだけ。
そして瀬戸内晴美は何冊か読んだことあるはずだが特段の印象はなく、女性をテーマにした昭和女流作家一群と全部混ざっちゃって、鮮明なのは寂聴になってからの例の僧衣姿だけ。
その人たちの作品はよく知らないのに、ビジュアルや関係性だけは知っているって……こういうのって何だろうなあと思って、井上荒野の本を一冊読んでみた−−『そこへ行くな』。
で、本を開いて目次にあった「ガラスの学校」という章題を見たら、ガラス繋がりで「あっ、アレってテネシー・ウィリアムズだったかも?」といきなり記憶が繋がった。
塩釜風呂でフワフワ思い出してた話は、バロウズでもなくボウルズでもなく、テネシー・ウィリアムズの『呪い』の中の一編だった。バロウズとはウィリアム繋がりで記憶が混線したかもな……。そういや内容も、まさに「サウナに行くな」という話だったよ。嗜虐プレイの果ての破滅を予感しながらも、どうしてもそこに引き寄せられてしまうという。

そこへ行っちゃったらどうなるか?という話。全7編の短編集で、全体に共通するのは漠然とした鬱屈かな。
どの話もオープンエンドでモヤっとした印象で、一冊だけではまだこの著者のカラーが分からない感じだったかも。しばらくしたらすぐに各話が混じり合って渾然一体となって……ううーん、もう記憶力がダメダメだ。よっぽどの印象がないと心に刻まれず、すぐに忘れてしまう。
最後の「病院」は他の話と少しトーンが違って、他の話が薄闇ならこの話は薄ら差す光って感じだったかな。母の病気への息子の反応がストレート&ダイレクトではなく、細かく砕けて方々にサラサラ反射して、そうとはハッキリしない形で間接的に他のことに影響していくのであろう感じとか。そうだよな、物事の影響ってそうかもな。
引っ越しして前より遠くなってしまいましたが、深大寺、楽しいですよね。
たまーに行くと、お店は少しずつ綺麗になっている気もしますが、昔と同じく、人出はあっても自然で長閑な感じは変わらずでした。私は坂の一番上の玉乃屋さんがお気に入りです。
温泉も勾配はありますが徒歩でも行けるところにあって、露天風呂も休屋も食事処もついてて1日のんびりできるんですよね。ほんと、良いところです。