ナス収穫、映画『グッドバイ』、『お金本』(夏目漱石、ほか)
2022年 07月 04日
ベッドに寝そべって読書中に、おーい、macchi, 見なくて良いのかー、おーい、良いのかー、後悔しないのかーと夫がしつこく呼ぶので見たら、手に何か黒っぽいものを持って振っている。よく見えないのでメガネをかけて隣の部屋まで行ったら、茄子が食卓に祀られてた。
これ今年初の庭のナス、と言う。
へえ、立派じゃん、いっぱい穫れそう?と聞くと、いやダメだね、これ一本だけ。これ一本と決めて大事に育てたんだ、という答え。そう言われてみると、なんだか神々しい。
それで大事に大事に育てたという一本をあっちから・こっちからよく眺め、手にとって重さを測ったり(しっとり重い)、灯にかざして艶を見たりして、十分に堪能した。ガーデニングは私の専売特許だったが、私が忙しくなって家にいる時間が無くなったら、いつの間にか夫が庭番になっている。ありがたいような、お株をとられて複雑な気分なような。昔と変わらず、ずーっと家にいる夫、昔からは全く変わっちゃった私……。
ナスは、庭の他の野菜と一緒にタイカレーになった。身がキメ細かくみっしり詰まって、とっても食べ応えのあるナスで美味しかった。
我々、若い頃は生まれたばかりの双子の赤子を抱えて月収は十数万のみ、たまに入手した美味しい食材はすぐには食べずにこうやってぐるぐる眺めたり触ったり浮かれて大騒ぎしてたよなあ。それで一緒に料理して、満腹後は赤子くっつけて夜散歩とかして、朝から晩まで四六時中一緒にぶらぶらしてた。なんだか分からないけど、とにかく夫が働かなくってなあ!ちょっと働いたと思っても、すぐにまた家に舞い戻って来るし。
そんなこと思い出すのは、さっき読んでた本がコレだから。
『お金本』
読んだことがない作家のものでは、平林たい子が可笑しかったかな。貧乏脱却法として思いついた方法が、お金を拾って警察に届けて落とし主から2割の謝礼金を受け取ることって……ふざけて書いているのかな?と思ったけど、文の感じからはそうとも言い切れず。判断がつかなかったので、次は平林たい子の本を読んでみようと思う。
この感じは分かるかもって思ったのは、若い頃の貧乏生活を描いた宇野千代の『わたしの青春物語』と村上春樹の『貧乏はどこに行ったのか?』あたり。
(貧乏については、)何と言ったら好いのか分からないのですけれど、そんなことは、ちっとも気にならない、何でも無い、ただそれだけのことで、自分自身のほんとうの、「生きている願望」みたいなものは、まるで別のところにある、それは何か分からないけれど、まるで別のところではっきりと生きている、—(略)それが面白くて、おかしくて、おまけに愉しくて、ちっとも気にならなかったのですものね。自分もチビを二人抱えてめっちゃ貧乏だったけど、別に何の心配も見通しも、更には計画すらもなかった。それでいて、ケンカはしたけど毎日はウキウキで。“それってお金とは関係ないことなのだ”という村上春樹に同感。一般的に連結されて考えられるアレやコレのうち、本当にくっついてることって凄く少ない……というか、全く無いような気もする。
笑ったのは、忌野清志郎。
といっても本人の部分ではなく、お養母さんが音楽三昧の18歳の清志郎を心配したあまり新聞に投稿した人生相談の記事。回答者の羽仁説子・進が、いかにも自由学園所縁の教育者らしい論調で、過干渉は逆効果ですからと生真面目に回答しているのが面白かった。御母堂の『性質は内向的でハキハキしないがお友達には好かれているようです』という息子に関する描写も、胸がほんのり温かく。いつだって先は見えないけど、自由にやらせて、良かったよねえ。
太宰治の未完の小説『グッドバイ』を、劇団ナイロン100℃のケラが完結させた戯曲の映画化。
出てくる女たちがそれぞれ違った妖しさで、見るの楽しい。緒川たまき……!たまに演劇臭。
主人公の死後(?)の「え、え?ここどこ?」みたいな展開も呆気にとられて、でも良い最後だった。何も語らなくても、ずっと一人で生き抜いて来たキヌ子がどの瞬間でどんな風に田島を好きになったのかは分かる気がする。壁にもたれて顔に影差すキヌ子の化粧っ気のないぼんやりした表情のグッとくる感じ、小池栄子って魅力的。