『夏時間』(ユン・ダンビ)、悲しむ練習
2022年 05月 29日
30度超え!家の窓を全部開けたら、夏っぽい風が家の中をそよそよ通り抜けて気持良かった。
夫がグミの実を摘んだのを開いてる窓から受け取って、朝食を作った。グミのケークサレと、庭のハーブとウィンナーのスープと、柑橘のカッテージチーズ和えとストレートジュース。
おかずになる草を摘みに庭に出たら、地面で木漏れ日が揺れてた。
風に吹かれて動く光の斑を眺めてると、懐かしい昔の映像を見てるみたいな気分になる。こういう時ってたまにある。たぶん、記憶の中のあの木漏れ日、この木漏れ日……みたいなものが重層的に呼び合って、これまでの夏の感覚が塊で一気に想起されるという現象ではないかと考えたりして。
振り向いて家の方を見れば、猫くつろぎ台の上に体を凭れてこちらを見ている弟猫が居た。この姿勢だと頭が揺れないで姿勢をキープできるみたいなんだよな。猫も木漏れ日見て何か思うのか?風を浴びて夏を感じてるのか?
『夏時間』(ユン・ダンビ)
失うことにまだ慣れない子ども時代、その痛みに戸惑ったり、荒ぶる姿勢で防御したり、体得したりする映画(か?違うかも)。
子どものときって、我慢してても涙が出たり、自分がどうしたいのか・どうしたら良いのか分からなくて居た堪れなくなったりってことがあったと思う。
子供の頃に泣いたことが必ずしもずっと大人まで後を引いたり深刻な影響力を持ったりする訳じゃないけど、小さい頃にどうしようもなく勝手に泣けたりした色々が積み重なって、もう泣かなくなってからでも泣きたい気持自体はわかるって事になるんだろう。
人が死んでも別にそこまで悲しくないよね、自分が死んでもmacchiだって泣かないし別に何も変わらないでしょとむかし人が言ったとき、まあもう大人だし泣かないだろうなとは思ったけど。でもその代わりに、そういう風に言われること自体が、子供のときだったら泣く出来事だと感じたんだった。大人ってもうなかなか涙は出ないけど、子供だったら泣いてたなって考えることはある。それって泣くのと殆ど同じことかなと思う。映画観ながら、そんなことちょっと思い出した。
木漏れ日という言葉(現象も)が大好きで、森の小道で木漏れ日を受けるたびに、これに当たるドイツ語がなくて残念、と思ってしまいます。
やはり年齢と共に色んな経験を積むと、一つ一つの経験は相対化されていくからですかね。あとは、泣くのもエネルギー要るし……泣いたような気分だけで済ましとこ!っていう省エネ気分もあるのかな。
国や地域、または時代によって、単語になってるものって違ってて面白いですよね!
よく使ったり意識に上るものが単語化されると思うので、ノルウェー語のUtepilsとか笑っちゃいます。
ドイツ語は色々まとめて一単語にしちゃうイメージがあるから、「木々を通した光の斑」とか一単語で言えちゃう気もしますが。