カテゴリ:面白かった本など( 73 )

2016年 01月 04日
自家製りんごバター
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【りんごバターの作り方】
(1)リンゴ1個を薄く切って、砂糖2匙とバター20g程度で炒める。良い香り!
(2)リンゴがしんなりしたら、ハンドミキサーでペースト状にする(ミキサーがなければ、最初にすり下ろしたリンゴを炒めるのでも良いようだ)。
(3)少し冷めたらバター60g位をさらにドンと加えてよく混ぜる。好みでレモン汁を一振り、シナモンを少々。
(4)冷蔵庫で冷やし固めて、保存。


冬休みも終わりが見えてきたので、平日には遅々として進まなかった実家に頼まれていた用事を二日かけて片付けた。朝の6時過ぎに全部終わって、そのまま眠っちゃって、起きたら12時近く(昼の、で良かった)。ううー、頭イテ。でも、これで休み前にずっと気掛かりだったことも全部片付いた。まだ休みは残り1.5日残ってる。やった!

で、「寝坊だねー」と末っ子が友達と冬休みの宿題を片付けに出かけた間に、冬休み後に料理を手抜きできるよう、ちょっと作り置きをする。

まずは庭で収穫したレモンが幾つか残っていたのでレモンサワーにした。途中、ご近所さんが遊びに来て柚子をくれたので、ちょこっとだけ柚子も加える。柑橘類のサワーはすぐできるから、3日もしたらもう飲み頃だ。

それから他の方のブログでりんごバターというものがあるのを知って、作ってみる。
色んなレシピがあるみたいなので、家にあるもので適当にやってみたが、出来上がったら、びっくりするほど美味しい!
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さらに、宿題が終わった子供を助手にして朝食手抜き用のスコーンなどをどんどん焼く。食事用に、甘くないやつ。紅茶スコーンとプレーンなスコーン。それから腹持ちの良いオートミールのクッキーを2種類、ナッツとココア。これで早起きできなかった朝は、スコーンにりんごバターをつけて出せばいいだけだ。ふっふ。
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保存用に君のジャーをかしてくれ、と末っ子に頼んだら、アレはクリスマスプレゼントの海賊の宝物入れにしてるからダメだよ、と断られた。ちぇ。仕方ないから、近所の雑貨屋に行ったら、似たようなものが新春セールで数百円で買えた。嬉しい。

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確かに、めちゃくちゃ宝が入っている……。

焼き時間の間は、ごろごろしながら新しく買い込んだ漫画を読んだりする。何冊か当たりがあって嬉しい。

匂いにつられてやってきた子供たちが出来上がったクッキーをすでにつまみ食いしているので、もしかしたら休み後まで持たないかもしれないけど、今回で簡単なレシピを知ったので、週1くらいで焼き足すようにしようかな。

……なんて思っても、仕事が始まるとなかなかやらないんだけど。一応、抱負だけは。
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この冬休みに読んだ漫画で、一番予想外のヒットだったのは、宮崎夏次系の『ぼくは問題ありません』。表紙が変なので、よくあるヘタウマギャグ路線かなーと思って読んだが、中身は詩情溢れる感じで、とても良かった。

『僕は問題ありません』(宮崎 夏次系)

周囲からちょっと浮いてる変人たちの短編集……っていうと、ありがちに感じるけど、それぞれ何か美しく。

絵も、実は結構上手というか、綺麗だと思う。

上の子たちも「これイイよ!」と言うので、同じ作者の本を他にも買ってみたが、これが一番好評の一冊だった。



お話に余白が多くて詩情溢れる感じは、市川春子にも通じるものがあると思う。両作者の詩情の路線は違うけど、いずれかが好きな人は、もう一方も好みそうな。

『虫と歌』(市川春子)

このブログのコメントで教えてもらって読んだら、凄く面白かった本。どの話にも、人間以外のナニカに対するフェティシスムが漂うのが、この作者の独自路線かも。

同じ作者の本を何冊か読んだが、この短編集が一番楽しめた。中でも、「日下兄妹」という話は、SFのストーリーとしてもオチがちゃんとあって、ポエム好きじゃない人でも、面白く読めると思う。

子供たちにもとても好評だったが、同作者のこれ以外の本は「段々マニアックになってきて分かりにくくなってるね……」との感想(私は他のも割と好きだけど)。



ちなみに、このブログで紹介している本のリンクからamazonで本が買われると、amazonから3%のポイントがもらえるので、私は漫画はそのポイントでだいたい買っている。どんな人たちが買ってくれてるのかは分からないけど、同じ本を読んだ人が、どこかで面白いと思ってくれてたらイイなーとか思いつつ、この場を借りてお礼を言いたい。おかげさまで去年も漫画を色々と読めました。ありがとうございます。
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by macchi73 | 2016-01-04 12:00 | 書籍など | Comments(2)
2015年 12月 02日
夜の昆虫標本、生き物を殺す
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最近リフレッシュのために夜の1時台には眠るようにしたら、やれることがいきなり少なくなってしまった。がーん。一日ってこんなに短いのか。

それでもあいた時間に何となくやっちゃうのが、夜の散歩(一人で、または誰かと)、ピアノの練習、それから生物系の調べ物、スケッチとか。机の上の仕事の本には、なかなか手が伸びないのに……。
つまり、これが自分の娯楽なんだろうなと思う。

この間は、子供を誘って、ついに昆虫標本教室に行ってしまった。
それがとっても面白かったので、手持ちの昆虫の死骸を引っ張り出してきて、自宅でも標本作りをし始めたりしている。疲れた中年が、夜の書斎で。一人っきりで、虫の死骸を。これって、どうなんだろう。
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自然の中で生きて動いている生物を見て、図鑑で名前や生態なんかを調べるのは楽しい。
それで勝手に親近感を覚えるようになった生き物がうちの庭にはいっぱいいて、毎年姿を見かけるたびに「あ、また会えた」と思う。それで触ってみたり、子育ての様子を観察してみたり、時には飼育してみたりしては、くすぐったいような気分になる。だいたいこのブログの【生物】カテゴリに載せてる観察日記は、そんな感じのものだ。

だけど、その一方で、自分には蒐集癖っぽい性質が強くあるのも感じる。
例えば、生物を見かけたら写真を撮っているが、手持ちの画像にない種を撮れた時には、やたら嬉しい。なのに一度でも撮影した種に対しては、「あ、これはもう撮影済みだな……」とか思ってしまい、カメラは構えずにサラッと見るだけで満足だったりする。つまり、データ収集癖。とにかく数とバリエーションが欲しいんだ。

更に、よく知らない生物を見かけると、非常にがっつり見てしまう。生きてても、死んでても。
これを保存して並べたいという気持ちが湧いてきて、なんとなく恥ずかしくなる。この時の気持ちは、オモチャが欲しい子供の気持ちと同じだと思う。
そういう自分が少し後ろめたい気がするので、だいたいそっけない感じを装っているが、変わった生物がいると呼ばれたり、人から「これあげる」と虫の死骸なんかをもらうことがしばしばあることを考えると、多分だだ漏れなんだと思う。

そういう風に、生物をモノ扱いしてずらっと並べてみたくなる気持ちと、庭のなじみのメンツそれぞれに感じる親近感と、両方あるんです!と、強く言い訳したい気分だ。
……誰にむかっての言い訳?って考えると、よく分からないが。

とりあえず、生きてる生物を見ることは好きで、庭の害虫とか言っても殺したりしたことはあまりない。でも、このままハマると、ぜったいに蒐集癖が顔を出して、シリアル昆虫キラーになっちゃうんだろうなー、それはどうかなーとか思ったりだ。

他の人たちの昆虫標本などに対しては、特に悪く思うところは全然ないんだけど。
(寧ろ、めちゃくちゃ見せて欲しい)

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とは言え、私は、生物は種によってかなり違ったように世界を見たり感じたりしてると思うので、あんまり、可愛いとか、擬人化した友情なんかを感じている訳でもなく。
死ににくい人間より、死にやすい昆虫などの生物は、もっと死や痛みに無頓著な作りをしていて、人間の個の意識とは全然違うところで生きてるはずだと思う。
だけど、それでもやっぱり一回死んだら生き返らないとか、絶対的なラインでは共通するところがあって、一緒の仲間っていえば仲間のうちなんだとも感じる。

動物を殺すということを考える時、いつも思い出すのは、この本。

『動物感覚』(テンプル・グランディン著)

著者は自閉症の動物科学者で、屠殺場のデザインなんかに関わっている。

動物にとても親近感を感じているっぽい著者なのに、屠殺場場デザインなの?って一瞬おどろくけど、できるだけ動物たちが恐怖を感じず、殺されるまで安らかに暮らせるような工夫を研究している。自閉症の自分と、動物たちの物の認識方法には共通点があると考えているようだ。

人間が雑食の機能を持つ以上、個人がベジタリアンになったりすることはあっても、人類の肉食がなくなることは無いだろう。食べられるための家畜という存在もなくならないだろう。

でも、グランディンの本の中に、「それでも家畜たちは毎日、楽しいことを待って暮らしている」って感じのところがあって(うろ覚え)、そりゃそうだ、生物なら皆そうだと、強く思った。どうせ殺して食べるからって、恐怖や不快の中で暮らさせるのは無しだよな……。せめて楽しい日々の後になら、生物は誰もが死ぬんだから、殺されたり食べられたりっていう死に方も終わり方の1つとしてありなのかなと思ったり(でも逆に、生物なら誰でも、殺されること自体が嫌だろうってところもあるかもだが)。


人間の望む性質を強めるための交配で、特定の種が、どんどん(望まれた面以外でも)偏りを強めて、ある意味、精神に変調をきたしてしまうこともあるという話は怖かった。

それともう一冊。
このところ末っ子が、「このお話しとっても面白いんだよ、あのね…」と、夜の散歩やベッドでストーリーを教えてくれてる本。

『岸辺のヤービ』

私は読んでおらず、子から話を聞かされているだけだが、食べることに伴う殺生を思って物を食べられなくなる妖精的なものも登場したりする。それがメインストーリーではないようだけど。あら、タイムリー、とちょっと思った。

で、子供のそっち方面の意見もそれとなく聞いてみたけど、なかなか現実的で中庸な感じ。意外と大人だな。

私が「昆虫標本!?大好きさ!イエイ、ずらっと並べちゃおう!」と自分の嗜好のままに堂々としないのは、生命に対する姿勢という面で、子供からみた母親ポジションというところをちょっと気にする部分もあるのかなと思う。単に、私の中の固定観念の母親イメージで、それイコール私じゃ、全然ないけど。ってか、むしろ全然ちがうけど。


多分、標本のための昆虫採集とか、物凄く楽しめる自分だろう……きっとそのうちバンバンやる可能性も高い……そして、こんなテキストを残したことを後で決まり悪く思うだろう……とか分かりつつ。書いておく。


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by macchi73 | 2015-12-02 01:44 | 書籍など | Comments(6)
2015年 11月 06日
卵のように軽やかに
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庭隅にレモンが鈴なりだ。収穫して肉と焼いて食べた。

我が家のレモンは、グランドレモンという品種(マンダリンとの交配種らしい)。
味は、酸っぱさの中にもなんとなく甘さがあって美味しい。レモンっぽくない滑らかな薄い皮をしていて、大きさは普通のレモンより少し大きく、形はレモン型ではなくて卵型をしている。

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卵型つながりで?

このところずっと夜は一人で過ごしていて手持ち無沙汰なので、『卵のように軽やかに』を始め、エリック・サティに関連する本を何冊か続けて読んだ。


サティが書いた文章やイラストを集めたアンソロジー。表紙もサティの自画像。

サティの文章って、面白いんだけど、わざとひねくって剽軽に書いてて、なかなか正体が見えにくい感じ。

手描きイラストの方には、ヘンテコなおかしみがある。イラスト中に書きつけられているテキストも面白い。



その中で、一番面白かった一冊は、サティが描いた装飾的な楽譜を頁にそのまま散らしてある『エリック・サティ詩集』。

『エリック・サティ詩集』(藤富保男訳編)

すごくかわいい感じの中身で、サティって子供っぽい人だったんだろうと感じられた。肉筆楽譜のページが多くて、サティを身近に感じられる。楽譜の隣に、装飾的な絵のような文字で文章が書きつけてあったりする。

文書だけまとめて読んだ時はそれほどには面白くなかったサティが、手描き楽譜が入ると、何故かいきなり面白い(または、翻訳がすごく良い)。それと、訳者の藤富保男氏が挿入する小文やカット、各ページのレイアウトがとても良い。

読みながら笑って、ほのぼのした。



次いで面白かったのは、いろんな切り口からサティを紐解いた、アンヌ・レエの『エリック・サティ』。これは本としての内容が面白い。



サティの死後、彼が一人暮らししていたガラクタだらけの部屋で見つかった葉巻箱の中には、きちんと切り抜かれた小さな紙片がいっぱい詰まっていて、綺麗な色インクで縁取りされ、いろんな絵や文章が書きつけてあったらしい。

それがあのヘンテコなイラストとかなのか……と思うと、なんとも言えない気分になった。

本の中では「こんな無意味にサティがどんな悦びを見出していたのか、よく分からない」なんて言われてしまってもいたが、いやあ、ひとりぼっちで暇だとそういうのやるよな……やるよ……とか思ってしまった。

ちなみに私も一人暮らしの頃やらかした。そして何を思ったのか、恥ずかしいことに一人のクラスメートに見せた……とても活発かつ外向的な友人だったので、多分、意味がわからなかったことだろう。大人になってからは海外のリゾート地で暮らすその友人に、今週 7, 8年ぶりくらいに会って、相変わらずのピカピカで力強い笑顔を見ては、ちょっとその事を思い出したり。



「夜になると、彼らは夕食をとり、それから浜辺に出てパイプをふかすのだった。煙草の香りが魚たちにくしゃみを催させた。ロビンソン・クルーソーにとって、無人島の暮らしは楽しくはなかった。『ちょっとさびしすぎるな』と彼はいう。少年のフライディもおなじ意見だった。主人に向かってこういうのである。『そうです、旦那さま、無人島、ほんとにさびしすぎる。』そして、その大きなまっ黒な頭を振ってうなずくのだった。」

こんなさびしい小文を誰が書いたのか? 有名なエリック・サティである。死の一年前に。真の友もなく、子もなく、ただ有名ではあったサティ。(...略…)

しかし、サティも楽しくはなかったにちがいない。彼の無人島での暮らしは −− アルクイユのサティの部屋、二十七年間住んでいたが、彼の存命中は誰ひとり足を踏み入れることのなかった「象牙の塔」での暮らしは。サティの死後、不透明になった窓ガラスや、クモの巣や、壊れたピアノの蓋の下に隠された紙クズや、そのほか山のようなゴミや虫が発見された。(...略… )

「無人島は、時にはちょっとさびしすぎる」から、サティはひそやかに嘆き声をもらした。あるときは言葉で、またあるときは音楽で。


それから、ジャン・コクトーによるサティについての本。
翻訳者が安吾で、ちょっと驚いた。そんな時代か。


コクトーには、いかにも時代の寵児って感じの華があって、サティについて書いても、コクトー色の方が勝つ。これはサティの本というより、コクトーの本だな。多分、コクトーが表現したい思想があって、それにサティがぴったりだったから、担ぎ出したって感じもあるだろう。

ピカソ、コクトー、サティで舞台をやったりして3人は交流があったようだけど、堂々と煌くピカソとコクトーに比べ、サティはどうしても垢抜けないショボい感じが漂う気が……。



そのサティの多少のショボさを感じて、町田町蔵の『壊色』という本にある「ふぬけの悲しみ」という短文を思い出したりする。
 みんなはふぬけについて考えないか。
 僕はつい考えてしまう。
 ふぬけというものはどういうわけか公園に一人でいることが多い。そして公園には小学生くらいの子供が遊んでいる。ふぬけは思う。「私は子供らと遊びたい。(...略…)」そしてふぬけはパン屋に走ってつまらぬ駄菓子を大量に買い、子供に与える。しかし子供はそんなものに喜びはしない。そこいらに投げ捨ててどこかへ行ってしまう。ふぬけは駄菓子の散乱する人気のない公園に一人、しょんぼりと立っている。ふぬけは小声で言う「どうもうまくいかんね」ロマンチックな音楽が流れている。 
 このようにあらゆる局面において現実はふぬけを打ちのめす。そしてふぬけはしょんぼりする。そして言う「どうもうまくいかんね」そのときふぬけの口は尖っている場合が多い。しかしふぬけ本人はあまり気にしていない。あくまで見た感じしょんぼりしているのであって、それはふぬけの意識とは無縁である。ただふぬけの心の奥底がどうなっているかはわからない。このしょんぼりは僕には相当こたえる。見ておられぬものがある。ということはその心の奥底にははやり奇怪な悲しみが蠢いているのではないだろうか。

そうやって、昔に生きてた人たちの様子を読んで、不思議な感じに浸る。
ふざけたり怒ったり皮肉ったりして素の自分を韜晦してた、ひとりぼっちのショボいサティの姿が目の前に浮かび上がって来るような気がした。ま、本当にそんな人だったかは、分からないけど。想像。

でも、130年も前の狂乱の芸術の都パリの汚い部屋でひとりぼっちで暮らしてた作曲家がいて、そこから時間も場所も遠く離れた東洋で、ピアノ素人がその曲をポロンポロン弾くことが起こるってのは、妙な感じだ。人間って、記録を通じて時空を超えられるところが、他の動物と違うところかも。

サティが「家具の音楽」として発案した”意識的に聴かれることのない音楽”っていうのが、その後のアンビエントやミニマル、BGM系の音楽へと繋がっていったということだ。サティの曲をもう少し弾いてみたかったけど、近所に楽譜がなかったので、替りにルドヴィコ・エイナウディの曲を弾いてる。イージーリスニング、イージープレイング。


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by macchi73 | 2015-11-06 23:55 | 書籍など | Comments(0)
2015年 10月 11日
ゆっくりと、苦しみをもって
天気の悪い連休、家の奥の狭い部屋に引きこもって過ごす。持ち帰り仕事。

末っ子が足元で粘土工作を始める。そのうち、大きな羽根布団を私の机の下の狭いスペースに持ち込んで、ふかふかの中に埋もれて本を読む姿勢で落ち着く。つられて、私の足元も暖かくなる。家族の会話はそんなに無いが、これはこれでありだと思いたい。
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暇な時間にはピアノを弾いてた。
ここ数日でサティの「ジムノペディ」を覚えた。
ちゃんと弾けるよう、ペダルを買ってきた。それからヘッドホンも。
深夜、目が覚めた時に暗い部屋でヘッドホンつけて暇つぶしに弾いてると、月夜の船で一杯やってるみたいなゆらゆらした気分になる。安らかで楽しい。

で、本当はどんな風に弾くもんなんだろうと思って調べたら、サティ自身からの指示は「ゆっくりと苦しみをもって(Lent et douloureux)」だと知った。ええー、苦しみか……想像してたのと違ったな……。

Wikipediaによれば、大勢の青少年が全裸で踊る古代ギリシアの祭典(ジムノペディア)に曲想を得て作られた曲らしい。踊りの情景なのに「苦しみをもって」っていうのがすぐにイメージできないけど、古代ギリシアはそうなのか?目を瞑って、想像してみる。(ボリウッドの群衆ダンスが浮かんでかき消す)

ギリシアと言えば、学生時代の古代ギリシア語クラスのイメージ。
そういえばその時の『イーリアス』の両軍激突の場面、群衆の中で倒れゆく青年兵士1名にいきなりクローズアップして長々と壮大な比喩で語り出したりして、やたらスローモーというか、重厚かつ大仰だった記憶がある。"ゆっくりと苦しみをもって"、そんな感じなのか?

重い足を引きずって、もたれあいながら、ゆっくりと踊りを捧げる青年兵たちを想像して弾いてみる……ぐったりと疲弊して……カモウオー、カモウエイス、カモウエイ、カモウオメン、カモウエテ、カモウシン?(適当)

「人間はオリュンポスの神々の与える運命に勝てません」ギリシア語の先生の顔を思い出したりしていたら、あれ、疲れた兵士に乗っ取られて、ゆらゆらする月夜の船がなくなった。がーん。

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動画を見たら、思ってた弾き方じゃなくて驚いた。
左手だと思ってたとこが右手だったり。
で、何件か動画検索してみたが、どうもみんな同じ方法で弾いてるっぽい。ピアノの指使いって、字の書き順と同じように、正解が決められているものなんだっけ?そしてそれはどこで知る?




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作曲家のエリック・サティは、コクトーと組んだ舞台の楽曲も作っていたと読んで、久々にコクトーを本棚から引っ張りだして読む。

……恐るべき姉弟の子供部屋と、自分のデスク周りが重なった(主に散らかり具合が)。

『恐るべき子供たち』(ジャン・コクトー)

毒薬、写真、がらくたなどの雑多な宝物に溢れる混沌の子供部屋を神殿として、大人になるのを拒否した姉弟の物語。

コクトーの本の中で一番面白いと思う。
だけど、いかにも1920年代パリって感じの芸術至上主義っぽい才気キラキラ感は、やっぱり若い頃の方がグッときたなーとも感じた。ってか、「子供の無邪気な残酷さ」みたいなのって、実際に子供を近くで見るようになればなるほど、大人の作ったある種のファンタジーってとこもあるよなあ?って感じもしている。

あと、生年から考えるに、サティはどっちかっていうとベル・エポックの人で、コクトーたち狂乱の世代より一世代前って感じかな?

サティも色々と面白い人だったようだ。
コクトー以降の一時期は、みんな意識的に変わり者をやってたと思うけど、その一世代前の変人は、もっと止むに止まれぬ地に足がついた変人が多い気がする。著作もあるみたいなんで、今度見てみよう。



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by macchi73 | 2015-10-11 23:55 | 書籍など | Comments(4)
2015年 08月 06日
センス・オブ・ワンダー
楽しかった夏休みも終わって、私は仕事の日々に戻った。
私以外の家族は全員まだまだ夏休みで、夜に仕事から帰ると、家の中にふわふわした休みの雰囲気が漂っている。

明るいうちに帰宅すれば、夕方の散歩が待っている。
ピンク色の夕焼け、蝉の声、虫捕り網を持った末っ子の駆け足、陸橋から見る小さい夜景。

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蝉の声が降ってくる木の下で、あ、と立ち止まって、「ねえ目をつぶってここ立ってみて」と娘が言った。その通りにしてみたら、「いいよ」と今度は私の体をぐるっと回して、「もう一回、目をつぶって聞いてごらん」と言う。そして、「ね、面白くない?」と聞いてくる。

まるで謎かけみたいだけど、実際にやってみればすぐに分かった。
木に向かって立てば、体じゅうが蝉の声に包まれる。背を向けて立てば、少し和らぐ蝉の声。
その後は、ずっと二人で左右にブルンブルン首を振りながら夕方の林沿いの道を歩いた。首を振るたび、蝉の声が大きくなったり小さくなったりする。珍しい音の世界を歩いている感じ。(←見ている人も、珍しい首振り親子を見てる感じ?)

暗くなれば、他の家族とも待ち合わせして、新しくできたタイ料理のお店で食事して帰る。
食後、子どもたちの絶え間ないお喋りが一緒くたになって、わあわあ言う蝉の声にまた似てる。湿ったドライヤーのような温風(熱風?)に吹かれて歩いていたら、ここは南国みたいだとクラクラした。子どもたちと一緒だと、どこにいても時々、知った風景が珍しい新しい場所みたいに感じられる。

そんな感じで、自分の休みは終わったけど、まだまだみんなの夏休みのおすそ分けをもらい中。

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ふと思い出したのは、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』。

たぶん夜の海でぞくぞくして二人で笑い合ったとき、大御所レイチェルが小さいロジャーに与えた影響より、小さいロジャーがレイチェルに与えた影響の方が大きかったのではと思う。そして、小さいロジャーは、大きくなったロジャーとは地続きの存在のようでいて、その一瞬だけのなにか別物でもある。子どもって呪物だ。

『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)

作家レイチェルが彼女の姪の子である小さなロジャーと一緒に自然の神秘に触れる日々を綴ったコンパクトな一冊。その後、ロジャーは5歳の時に母を失い、レイチェルに育てられた。

原本の扉に記された、編集者からの短いコメント:
レイチェル・カーソンはこの『センス・オブ・ワンダー』をさらにふくらませたいと考えていた。しかし、それを成し遂げる前に、彼女の生命の灯は燃え尽きてしまった。
生前、彼女がねがっていたように、

この本をロジャーにおくる
生前のレイチェルが本をおくりたいと願ったのは、彼自身の人生を生きている本物のロジャーだったか?それとも記憶の中の小さいロジャーだったか?と考えたとき、後者なんじゃないかなあとか、ふと思ってしまった。

訳者は書いている。
一九八〇年、私はこのロジャーと対面することになった。(中略)私が会ったロジャーは、ボストンに住む、背の高いがっしりとした青年になっていた。その頃は音楽に関する仕事をしていて、ナイーヴな繊細な神経の持ち主のように見受けられた。レイチェルのことは、まだ子どもだったのでよく覚えていないなどと語っていたが、誇りに思っているのは確かだった。『沈黙の春』の業績に対して与えられた数々の賞のうち、レイチェルが最も喜んだという、シュバイツァーメダルを大切そうに出してきて見せてくれた。私はもう一度、メインの潮風の下でロジャーに会いたいと願っている。聞くところによると、現在ロジャーは、コンピュータ関連のビジネスマンで、二児の父ということだ。
それで私は、また勝手に想像。
『センス・オブ・ワンダー』は確かに人生の素晴らしい瞬間を切り取った本ではあったけど、大人になったロジャーの中でのレイチェルの存在は、そんなに大した割合はなかったんではないか、とか。少なくとも、レイチェルが小さいロジャーを思い出したようには、大きいロジャーはレイチェルを思い出さなかったのでは、とか。

子どもと一緒に過ごす一瞬って、それ自体でキラッとした輝きがある(こともある)っていうだけのもので、実はそれ以外の大した意味はなく、子どもたちはどんどん色んなものを後ろに置いて進んでいく。だから自分もそこに居合わせてラッキーくらいの気持ちで、その短い瞬間を、センス・オブ・ワンダーを、適当に楽しむくらいで良いかもなと思ったり。


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by macchi73 | 2015-08-06 23:52 | 書籍など | Comments(3)
2015年 07月 04日
Tour de France 2005 / 2015
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いかにも梅雨っぽいジメジメ続きだ。

雨の重みで、庭の徒長した草花がクテッと倒れまくっている。つられて自分もグテッと気怠い。薄暗い部屋で、子供が退屈している。出かけようよー!暇だよー!とまとわりついてくる。いまお母さん本読んでるんだよー、たまの休日なんだからちょっとほっといてくれよー、と部屋から部屋へ逃げてたら、どこまでもついてきて、

ホ ン ハ ・ イ ツ デ モ ・ ヨ ル デ モ ・ ヨ メ ル デ シ ョ ー !

と、シューシュー唸りながら言う。目が据わってる。うわー、その顔は可愛くない……けど一周して可愛いかも。

仕方ないから一緒に雨散歩に出た。
娘はまだプリプリしてる。なんだよ言う通りにしたのに、と言うと、オカーサン遅いんだもん!もう午後になっちゃったし!と乱暴な歩き。怒りん坊だなあ、と言ったらギロッと睨まれ、手を伸ばしたらパシッと振り払われた。傘さしなよーと声かけても、小雨に濡れて歩くのが好きなの、なんて鼻息荒くいうので、一緒に傘無しで歩いていたら、窓から見るよりは意外と降ってて、前髪や顎の先からポタポタ水が滴り出す。通り過ぎる人たちが心配そうにチラッとこっちを見る。これは世間的には小雨ではないかもしれない。

で、雨宿りも兼ねて体育館でバドミントンしたり、花屋さんで猫たちと遊んだり、七夕イベントで短冊書いてお菓子と笹をもらったり、図書館で本を借りたりして、夕方帰宅。8.6km, 12000歩。いつの間にか機嫌は直ってて、買物の荷物持ちなどしてくれる。今日楽しかったー!明日もバドミントンに行こうね!絶対ね!と楽しそうに話しながら、もらった笹を水盤に活けて短冊を飾った後には、いつものように「えーまだ起きてるー」とかごねることもなく、速やかにベッドに移動。いっぱい運動したせいか、すぐにぐっすり寝てしまう。

それで静かになって、やっとのんびり読書ができた。
小学4年生かー、そろそろ反抗期くる子もいるのかな、とか思いつつ。
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今週の読書は、ロードレース一色。

2015年ツールドフランスが今日から始まったので、すっごい久々に中継を見たら、昔よく見てたバッソとかペタッキ、ボーネンが現役でちょい嬉しくなる。うう、ボーネン……昔イケメンだったよな……と夫が絞り出すような声で言う。ん?いまもけっこう格好良いと思うけど、髪型のことか?さすがに青年ではなくなったな。

そう言えば、2005年の今頃、先輩がツール会場付近に1年間の海外研修に行ってたんで観戦に行く計画してたんだよなあ。末っ子の妊娠で旅は取り止めたんだけど、レースが終わってみたらランスが7連覇を飾って引退という、見どころ満載、ツールが派手にキラキラした年だったんだ……。それが一転、翌年2006年にはオペラシオン・プエルト(スペイン国家警察のドーピング摘発大作戦)があって、ロードレーサー界はなんかボロボロな感じになったのだった。それがもう10年前か。

そんなことを思い出しながら、当時のドーピングについてのノンフィクションを読んだ。
告白者のタイラー・ハミルトンの当時の活躍も坊ちゃん風の見た目も、映像としてよく覚えてるので、共感を覚えながら引き込まれてグイグイ読めた。良い本だった。

『シークレット・レース』(タイラー ハミルトン)

非常な努力をしてやっと参入できた業界(ロードレース界)が、実は不正(ドーピング)に手を染めないと活躍できない世界だったら、自分は、人々は、どうするか?という話。それが、当時渦中にいたハミルトンの一人称で語られる。

結果としては、良い人間なのに薬に手を染めた選手もいたし、良い人間とはいえないのに薬には手を出さなかった選手もいた。恐れ知らずで堂々と糾弾した選手も数名いたが、彼らが排除されるのを見て、段々と誰もが「沈黙の掟(オメルタ)」に従うことになる……。

こういうのって、ロードレース界だけじゃなくて、けっこう色んな業界で、程度は違えどある話だと思う。それに手を出さないとこの世界でイッパシの人間になれないし、自分だけがクリーンに振舞って落ちこぼれたからってこの世界が変わる訳ではない。もしそうだったら、ライバルも誰もが同じことをしているんだったら、同じ条件で戦うために自分がコレをするのもある意味公平なことではないか?っていう考え方が広がって行くのはよく分かる。特に、それがその業界の中でもハードに働いて働いて、自分の努力の結果でやっとトップメンバーに入れたと感じている人たちの間であれば。

著者のハミルトンもこう語る:
罪の意識を感じそうになったら、いつもの台詞を自分に言い聞かせた。「これは同じ条件下での戦いだ。僕は一番ハードに働いた。そして、勝つのは一番ハードに働いた人間だ。僕はやり遂げた。だからそれに値するのだ」と。

正直、その業界に執着があって熱心にやってる人、成功してしまった人ほど、こういう暗黙の掟からは逃れ難いんだと思う。例えもし自分が直接手を染めてなくても、業界の崩壊は自分の居場所の崩壊でもある訳だから。そうやって起きるモラルハザードって、でも長期的にはその中にいる人たちの何かを殺す。何故かというと「これは外側の何も知らない人たちが言うように完全な悪ではない、必要悪だ」っていくら自分たちで思っても、やっぱりそれは外側の世界には絶対に隠すべき事であり続けるからだ。
これが僕が学んだことだ。つまり、秘密は毒なのだ。秘密は人生の喜びを奪う。秘密はその日、その瞬間を生きる力を盗む。秘密は、愛する人々との間に壁をつくる。

それで疲れ果て、しかも外部からの薬物一掃の圧力がもうどうしようもなく強まって来た情勢の中、ハミルトンはコンタクトをとってきた捜査官に全てを告白する。捜査官の一番のターゲットは、もちろんスーパーチャンピオン、ランス・アームストロングだ。が、そのランスは桁外れに強くて酷いやつで、あらゆる勢力と手を組んで告白者たちを圧迫・恐喝、そして隠蔽工作などをするので、ハミルトンはさらにヨレヨレに疲れ果ててしまう。ランスほどの人気も権力もコネもないし。で、そのコネなどもあってか捜査中止になって、一瞬ランスが勝ったように見えたり、色んな経緯があって、最後は……。

最後まで読んで、自分の自転車生活中に溜め込んでしまった色んな品を整理しようとする時のハミルトンの気持ちが、よく分かった。ルールとして良い悪いというのとは別の次元で、力を尽くしたかそうでなかったかっていう次元の感慨っていうのは、個人レベルでは当然あるよな。
これらの品々をあらためて手にするのは嫌なことだろうと思っていた。見たくもない過去を思い出し、それらをすぐに埋めてしまいたいというような衝動に駆られると思っていた。実際、それはその通りだったーー僕の心は痛んだ。とても痛んだ。だけど、僕は思い出の品々から手を離せなかった。一つひとつ、それらを手にとっていった。そして、ひとつの真実に辿り着いた。これが、僕の人生なのだと。この異常で混乱した世界が、この驚きに満ち、生き生きとした現実こそが、僕の人生そのものだったのだと。

ちなみに、この本の出版の後しばらくして、続々と出てくる告白者と捜査結果に外堀を埋め尽くされて、ランスもついにドーピングを認めることになる。他の選手たちが悔いの感情を表明するのとは対照的に、ランスは全く感情を感じさせないたった5回のYesだけで告白したというのが印象的だった。

10年前、ツールを楽しく観ていた時、夫はウルリッヒを・私はランスを応援してたので(この二人とも、薬物使用として遡って勝利を剥奪されている)、ランスのこの先が、何かしらいい感じに転がってほしいなあと祈ったり。


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さらにもう一冊、こちらはフィクションの、ロードレース・サスペンス小説。
正直、こっちの本は、私はそんなに面白く思わなかったけど、同じ題材のフィクションとノンフィクションを続けて読むことで、現実に生きてる人間って小説よりも複雑な存在だと、重みを持って感じる効果はあった。

『サクリファイス』(近藤 史恵)

Amazonでも200件近いレビューがついてて評価も高かったのでちょっと期待して読んで、なんとも言えない気分になった。読後感を一言で表せば、「サクリファイス過ぎ!」。

登場人物が少年漫画のキャラクターっぽい。人格=役割。こいつリーダー、こいつ補佐、こいつライバル、こいつ主人公、的な。

読んでて浮かぶ登場人物の様子が13-18歳くらいだったので、もしかしたら、中高生の部活が舞台とかだったら、こういうのも意外とアリだったかもとはちょっと思った。


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他の関係者たちも、ドーピングを語る。

だいたいこんな論調が多いっぽい。
リーバイ・ライプハイマー「わたしがドーピングをした理由―自転車ロードレース現役選手の告白」
われわれが愛し、わたしが自らの職業として選択したスポーツがこうした状況にあったことは残念でならない。わたしが過去にやむを得ず下した決断を悔やんでいる。わたしはドーピングをしてでも夢を実現したいと思っていたことを認め、禁止薬物を使用したことを認める。(略)
もっと早く告白できたかもしれない。だが、そうしたからといって、わたしのキャリアに終止符が打たれる以外に何か達成されていただろうか。1人の選手が名乗り出て、自転車ロードレース界の暗黙のおきてに逆らって自らの過去を告白していたとしても、組織的な問題が是正されることはなかっただろう。(略)
検査手法の向上やこのスポーツの文化の変化のおかげで、自転車ロードレースは随分以前からはるかにクリーンなスポーツになっている。新しい世代の選手たちは、われわれが過去に下したような決断に迫られるようなことはない。この状態が続くようにするためにわたしの世代ができることは、自分たちの過去の行いに対する責任を取ることだ。

ジョナサン・ヴォーターズは、スマートなタイプ。
ジョナサン・ヴォーターズ「スポーツからドーピングを除く方法」
そして考えてみてほしい、正しい選択をし歩き去った才能あるアスリートたちのことを。彼らは自らの良心の導きに従ったことで罰され、取り残された。彼らはどうやって夢を失ったことに折り合いをつけるのだろう?それは彼らから盗まれた。(略)
私が知るほとんどのドーピングしたことのあるアスリートたちは、こう言うだろう。彼らはただ、公平な競争の場が欲しかったのだと。それはあることを教えてくれる。皆が求めるのは公平なチャンスで、それ以上ではないのだ。だから、私たちの若いアスリートたちに、ドーピングのない、公平な競争の場を与えよう。私たちの努力とリソースをスポーツを公平なものにするために投じよう。もう2度とその選択を迫られるアスリートがないように。

自転車界での未来を盗まれた側のバッソン。ドーピングを嫌って早々に自転車界を去ったポテンシャルある選手たちは、他にもきっともっといたと思う。
Christophe Bassons ~ a loner against doping
アームストロングに対し「僕は次世代の選手のために今のこの自転車界を正したいんだ。」とバッソンスは言い放った。それに対してアームストロングは「そう思うならお前が自転車界から消えろ。」と吐き捨てた。

ドーピング告白した選手の中でも、微妙な立ち居地にいるランディスのインタビューは面白かった。ランディスは、私のイメージとしてはヤケクソな選手。でも言ってることは一番理解しやすくて、自分の感覚にも近い気がする。
ポール・キメイジによるフロイド・ランディス インタビュー
後悔は感じるよ。それがどうしてかはっきりさせよう…俺がした決断については、俺は特に罪悪感を持っていない。だけどその決断は俺の大切な人々ーー家族や俺の周りの人ーーをとても苦しめた。だからそれを後悔している。でもあまりそれを突き詰めていきたくはない。そうした決断を一度もしていなかったら、俺はそもそもツール・ド・フランスに出ることはなかっただろう。俺のキャリアや俺が加わることになったチームでは、もし俺がそれ(ドーピング)をしなかったら、俺はツールに行けなかっただろう。そこから俺が得た良いことも悪いことも、俺は経験できなかっただろう。だから俺にとっては、別にいいんだ。俺は何とかできる。でも他の人にも影響したから、だから俺は後悔している。
(略)
ーーだがきみはある人々に対しては不正をしていたんだ。2006年のツールにはドーピングしていなかった選手もいた。きみはそうした人々にどう対峙する?その事実にどう対処するんだ?

事実はこういうことだ。誰かは必ず彼らに不正をする、俺は不正をされる側にはなりたくない。善い筋書きはどこにもない。物事がそのうち正されることもない。俺はUCIに訴えに行く気もない―彼らは買収され、金を払われているんだ。

他の選手の告白が、悪いと分かりつつ避けられなかった、苦しかった……ってな感じがあるのに、その点はサラッと超えちゃってる感じもあるランス。ある意味ちょっと規格外っていうか、気の毒な(っていうと変か)気もする。一部だけ、スポッと感受性が低いってこと、割とあると思うんだよな……。
「もうパパを擁護しなくていい」元自転車王者の告白禁止薬物の使用認める
「勝つことが重要だった。今も勝つことは好き。意味はちょっと違うけれど」「(薬を使って)悪いと思わなかった?」と3度聞かれても答えは「ノー(思わなかった)」。「欺いていると思わなかった?」と聞かれ、「『だます』という言葉の定義がライバルや敵が持たないような利点を(自分が)得ることだとしたら、私はそうは思っていなかった」と語った。(略)
元チームメートに対して薬物の使用を強いたということについては否定したが、「いじめていたの?」と言い方を変えると肯定。「僕には(思い描いた)物語があって、それをコントロールしたかった。それに従わない人は嫌だった」。

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by macchi73 | 2015-07-04 23:55 | 書籍など | Comments(3)
2015年 06月 24日
ただモグラくんのズボンのためでなく
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朝、庭をぐるっと歩いたら、見慣れない場所にエキナセアが咲いていた。
去年の晩秋に小さな苗を植えたところ、すぐ冬になって地上部が枯れちゃったので、「あー、ダメだったかな?」と諦めていたのに、土の中でちゃんと株を大きくしていたんだな。

免疫力を高めて肺炎予防などになるハーブティーを作れるっていう記事を読んで、あまり花色など気にしないで適当に3株植えたものだったけど、こんな花色だったとは。緑色の花が混じっていて面白い。
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そういえば去年新しく植えたのって、このエキナセアくらいかも。庭ブログにあるまじき庭放置。

庭の園芸記録も、もう気づけば9年目くらいで目新しいことも随分減った。
だんだんと「この種類の植物ならこういう生態」みたいなノウハウも身についてきたせいか、草花の栽培記録をメモすることもあまり無くなって来たことに気づく。庭のログとして始めたブログだったけど、なんかもう植栽については変化もなくて、途中で育児ログ混じってきちゃってるしなー。しかもその子供も、そろそろ手を離れつつある……うーん、どうすっかなー。

……とかなんとか思いつつ、庭に宿根アマの種を蒔いた。
竜舌蘭の織物してたらなんとなく楽しくなってしまい、「そういえば子どもの時に見たアニメで、モグラが青い花の繊維をとってズボンを作ってたなー」なんて思い出し。あの植物は何だったろうと考えるに、たぶん亜麻(リネン)っぽいので、試してみようという訳。

e0134713_874060.jpg種袋には、『茎を利用して繊維をとるには、青い花が咲き始めたときに刈り取ると、すらりと伸びた美しい繊維がとれます。たねは果実が熟して黄色くなった頃、こぼれる前に茎ごと刈りとります。』とある。

種の蒔き時は春(4-6月)と秋(9-10月)で花期は夏(6-8月)だから、収穫は来夏になっちゃうかな。


なんか早起きして活動するのって、久しぶりだ。
ずっと朝起きられなくて出勤直前までゴロゴロする生活になってて、それが嫌でまた落ち込んだりしてたんだよな。それがちょっと変化の兆し。

残業抑えて3ヶ月目の効果がやっと出てきたか?それとも夜の散歩を再開した効果か?それとも先週ダンサーの人と飲む機会があり、嬉しい型をすれば嬉しくなるし悲しい型をすれば悲しくなるという話を聞き、嬉しい型をするように努め始めた効果か?今朝は、死んだ父がなぜかマイヨジョーヌのジャージを着てツールドフランス的な何かのレースに出ており、握手する夢を見た。自転車なんて乗らない父(たぶん運痴)だったが、後ろ姿を見送ったら、ヒョロい体型には意外と自転車選手姿が似合っていて、起きてから少し可笑しい気分だった。

いずれにせよ、植物に季節があるように、人にもなんかのリズムがあるというのは実感。

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子どもなら誰でも憧れるもぐらくんの青いズボン。


『もぐらとずぼん』(エドアルド・ペチシカ)


子どもの頃にテレビでやってた「もぐらくん」。絵本もあって馴染みのキャラクターだったが、チェコのアニメだったんだ。

大人になってからは近所の映画館などでも「クルテク」とかいって上映されてたり、ちょいオシャレな雑貨になってたりするのを見かける。



そして、マイヨジョーヌというのは、この黄色いジャージ。
ツールドフランスで総合優勝すると着ることができる。

そんなこととも知らずに単なる格好いい運動着として購入し、マイヨジョーヌを着てママチャリを乗り回していた若かりし頃の自分が恥ずかしい……。


『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』(ランス・アームストロング)


昔この本を読んで、自転車界の嫌われ者のアームストロングを好きになった。

と同時に、こりゃー嫌われるよなというアクの強さも感じられたし、アメリカ的なやり方を嫌うヨーロッパ自転車界のあり方も面白いと思った。

その後、ドーピングが発覚して「そうか……」とは思ったけど、まあ本を読んだ感じでも、勝ちへの執念がすごいというか、ドーピングでもなんでもアリっぽい雰囲気はあったもんなーとも思ったり。

スポーツ的にはアレなんだろうけど、とにかくレースにも病気にも何にでも絶対絶対負けたくない人の自伝という意味では、今読んでもたぶんある意味感動的だし、面白いのではと思う。


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by macchi73 | 2015-06-24 07:00 | 書籍など | Comments(3)
2015年 06月 20日
龍舌蘭のコースター
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土曜の朝、長男は大学に・長女はバイトに出かけて行った。
ほかの家族は寝ていて手持ち無沙汰だったので、私は機織りの続きをする。

前回は経糸(たていと)も緯糸(よこいと)も竜舌蘭を使ったのが原因でちょっとゴワゴワした感じになっちゃったと思うんだよな。なので、今回は経糸は毛糸を使って、緯糸だけを竜舌蘭にしてみた。

そしたら、適度に柔い、良い感じの布ができた。嬉しい。
先日の布と縫い合わせ、コースターにしてみる。
端っこがクルンとしてしまうのでしばらく割箸やグラスで抑えて形を整えたら、そのうち良い感じに落ち着いた。
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お昼。
夫と末っ子と一緒に街に出かける。
風が強くて天気が良くて、爽やかな休日だ。歩くと風で服がバホバホいう。

大学帰りの息子と待ち合わせて、少年王者舘とパスカルズのダンスライブを観た。すごく楽しんで、夜みたいな気分でぼーっとして劇場を出たら、まだまだ明るかったので「変な感じだねえ」と末っ子と笑う。

息子はそのまま週末一泊旅行する予定だというのでお茶して別れ、私たちはその足で長女のバイト先に行ってみる。

長女の大学界隈の小綺麗な街並みに「レイクはこんな都会の住人になってしまったのか……」と、何かうなだれる末っ子。可愛い門構えのお店を見つけてレジに並んだら、長女が少し頰をピンクにして「うわー」と言って、それから笑いをこらえながら「こちらとこちらとこちらも美味しくておススメです、どうぞ」というので、つい大きなホールケーキやおすすめのアレコレなんかも買い込んでしまう。
「レイク、頑張ってたね……嬉しいような寂しいような気持ちがする……」なんて、末っ子が呟くのが可笑しい。

風に吹かれてしばらく歩いたら後楽園遊園地が見えた。親子3人で遊んで帰る。
キラキラのイルミネーションやら心浮き立つ音楽に、顔を輝かせて走り回る末っ子。子供はこういうの好きだよなあ。

そんな末っ子の様子に二重写しみたいに、上の双子たちが同じくらいの年頃に家族4人で遊びに来た時の様子を思い出す。ついこの間のことのように。そしてそれが10年くらい前のことだと気づいて、ちょっと驚く。

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糸を紡ぐつながりで。



竜舌蘭を叩いて解して作った繊維の塊から、繊維の端を引っ張り出して指で依りをかけて糸を紡いでいたら、だんだんと指の先が荒れてきた。ちょっと痛い。

アンデルセンの童話『野の白鳥』を思い出して、姫はこうやってイラクサの糸を紡いで11人分の王子のマントを織ったのか……それは大変な仕事だったね……と、妹姫の苦労を偲んでしみじみ。

自分でもやってみて、初めて人の苦労が実感できることってある(ってほどのことでもないが)。


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by macchi73 | 2015-06-20 23:55 | 面白かった本など | Comments(4)
2015年 05月 10日
『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』(万城目学)
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先日仕込んだバラジュースの花びらを漉していたら、末っ子が、母の日のプレゼントだと言って、万城目学の『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』の読書感想文をくれた。さらに、「本日わたくしは執事でございます」と言いながら、TVで見たという手作りお菓子を出してくれた。「クラッカーにトッピングを載せてハチミツをかけて冷凍庫で寝かせると、ハチミツが具をサンドするように固まって良い感じなのでございます」と口上を述べる。

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トッピングはバナナ(分かる)、梅干し(ちょっと驚いたが美味しかった)、そして鰹節(!)。
甘い物の後ってしょっぱいお菓子が食べたくなるよねーと、いつも私が言っていることへの配慮っぽい。斬新だ。

それではこっちのジュースもどうぞ……と、子供たちにバラジュースを出したら、末っ子が目をカッ!と見開いて「うわっ、すごい美味しい!」と素に戻ったのが、なんか凄くて笑った。
せっかく漉しとった花びらも食べようとするので、そっちは美味しくないよと止めたら、「ううん、美味しいよ!」と鼻を膨らませて言う。試してみたら、本当に美味しかった。多分、ローズドレッシュとマダムイザークの花びらって薄くて柔らかいからかと思う。これは捨てるのは勿体ないと思い、パウンドケーキに焼いた。

「執事として、そして娘として……」と、かしこまって子供がジュースとケーキをサーブしてくれる。良い母の日。
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中高生向けっぽいけど、小学生にも読みやすく、大人が読んでも面白い一冊。

『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』(万城目学)


実は前の週に、母の日に欲しいものある?と聞かれて、「本棚のこの枠から本を一冊選んで、お得意のビブリオバトルを披露してほしい」とリクエストしたのだった。

対象年齢が末っ子より上だけど、小学生ならもう読んでも大丈夫だと思われる本を並べてある棚だ。常々、是非トライして読んで欲しいなーと思っているのだが、あまりチビッコの喰い付きはよろしくなく、喰い付くのは漫画とか動画とかばっかりなんだよな。まあ、文字が細かかったり漢字も多いからパッと見がとっつきにくいのかもしれない。読んだら面白いと思うんだけどなあ。

で、「うーん、そうだなあ」と末っ子が選んだのは万城目学の『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』だった。狙い通り、一旦読み始めたら笑いながら読んでいる。ごはんだよーと呼んでも、「いまこれ読んでる〜」とか熱中していて、なんとなく嬉しい。しめしめ。

そうして今日、感想文をもらってみたら、良い感想も書かれてはいたが、一番強調されていたのは「『う⚪︎こ柱』の話がおかしいのです」という部分だった。少し大人の本を読んでも、やはり目の付けどころは小学生。


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by macchi73 | 2015-05-10 23:55 | 書籍など | Comments(0)
2015年 03月 30日
子供と庭の物語
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泊まりで子供たちがいっぱいいて、家が賑やか。

朝から庭でパタパタ足音がする。見れば裸足で遊ぶ子供たち。
以前一緒に種まきした家庭菜園を収穫してサラダを作ってくれたり、庭の花を摘んでテーブルを飾ってくれたりする。

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macchi〜!macchi〜!と呼ばれて出れば、木の上から・塀の上から笑い声がする。
樹上を見上げたら、ここがピノコのお気に入りの場所なんだー、ちょうど本棚になる枝もあるから、こ〜んなに分厚い本一冊ここで読んじゃったんだよーとか自慢している娘を発見。

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かと思えば、チビ友人の今の家は、窓の外でリスを見かけたりもする素敵な場所らしい。
みんなで遊びに来なさいよ、とチビ友人。行く行く〜!と娘。絶対だよ、じゃあまた明日ね、それから夏休みもね、と勝手に遊ぶ約束をしている。

うーん……家、海を越えてすごい遠いんだけど。わかっているのかなあ。

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子供たちの友情の前には、時間や空間の隔たりもなんのその。

『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス)

子供用にと思った本だったのに、自分が夢中になって読んでしまった。分野としては児童文学だけど、幻想小説、タイムトラベルSFって感触もあり。すごく面白い。

真夜中の13時を知らせる時計の音とともに少年の前に出現する、謎の庭園。その庭園で、少年はハティという少女と友達になり、毎晩の庭園探索を続けるが……という話。
 それ以降、トムは二度とこの小さなハティを見かけたことがなかった。そのつぎに庭園に出ていったとき、トムが見たのはもうすこし大きくなった、いつものハティだった。そのときも、それからあとになってからも、トムはハティに彼女の両親のことをたずねてからかうようなことはぜったいにしなかった。ときにハティが、もったいぶったようすをして、じぶんはとらわれの身の王女だという、あのいつかの話をくりかえすことがあっても、トムはぜったいにまぜっかえしたりはしなかった。

物語の筋としてはもしかしたら意外性は少ないのかもしれないけど、名作になるためには、ストーリーだけじゃなくて文章自体もとても大事なんだと感じた。とにかく優雅な庭園の描写が素晴らしい。こんな庭、自分だって絶対毎晩探索したくなる。


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by macchi73 | 2015-03-30 23:23 | 書籍など | Comments(0)