カテゴリ:面白かった本など( 77 )

2016年 10月 09日
2016年の金木犀(雄しかいない樹)
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9月末から10月頭にかけては金木犀が満開だった。庭も家の中もずっと甘い香りで、なんだか浮かれる。

夜も窓を開け放して香りを楽しんでいたら、「今年は金木犀が早いよね、普通は10月も半ばくらいが花の時期だけど……」なんていう、道行く人の会話が聞こえて来た。

思わず、「そうなんですよ!私もそう思ってたんですけど、でも確かここ数年はずっと9月に満開日が来てんですよね……」と家の中から相槌を打ってしまいそうになる。が、夜中にびっくりさせては悪いので、実際には発声はしない。見知らぬ人への、脳内でのみの相槌だ。

それで植栽メモを引っ張り出して、ここ10年ほどの金木犀の満開日をチェックしてみると、やはり2014年からの3年間は9月後半が金木犀の満開日になっていた。

これってどういうことだろ?
単にここ3年の花期が早いと言えるのか、それとも寧ろ、10月後半が金木犀の時期だったのは昔の話で、今は9月後半が金木犀の季節と言うこともできるのか?

ねえ、そこのところ、あなたはどう思います?……くらいに脳内で見知らぬ人に話しかけ続けるとこだったが、その頃には当然、通りすがりの人たちはずっと先に行ってしまっているのだった。で、真っ暗な窓の外には、金木犀の香りだけ。


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そういう訳で、花の盛りが9月末なのは、ここ最近の流れから言うと実はそんなに驚くほど早いという訳でもないのだけれど、今年は花が散るのも早かった……と思う。迂闊なことに、毎年花の盛りばかり気にしていて花の終わりは記録していなかったので、もしかしたら感覚で言ってるだけかもしれないが。

ある日気づいたら、ちょっと前まで樹上にあったオレンジ色が全部地面に移動してしまっていて、「え、もう終わり?」と、ちょっとびっくりしたんだった。今年はずっと暑さが続いて、いきなりバタバタっと肌寒くなったからか?
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地面に落ちてしまった金木犀の花は、オレンジ色の絨毯みたいで綺麗ではあるけれど、踏ん付けて歩いても、もう、あの魅惑の香りはしないのであった。受粉のための虫を呼び寄せるための花の香りだと思えば、そりゃそうか。

だけど、金木犀は雌雄異株の樹木なのに、原産地の中国からはオスしか運び込まれなかったと聞く。そしたら、幾らたくさんの花を咲かせて虫を呼んでも、花粉がメスまで辿り着くことは無いんだな。さらに言えば、金木犀の香りは日本の蝶や蚊にはむしろ忌避効果となることが多いらしい。原産地では、その香りに呼ばれて来る虫がいたんだろうと思うけど。

呼ばんとする虫も雌もいないのに、それでも毎年辺り一帯を甘い香りにするほどたくさんの花を咲かせてると思うと、金木犀、ちょっと寂しい感じもする。

(でも、その芳香のせいで人の手によって挿木で殖やされてることを思えば、メスなしでも、実は繁殖戦略には成功してると言えるのか?)
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ブラッドベリの『霧笛』を思い出した。
呼んでる相手はもういない、というつながりで。


『ウは宇宙船のウ』(レイ・ブラッドベリ)


ブラッドベリの短編集。どの話もすごく良い。

『霧笛』は、ずっとひとりぼっちで何百万年も海底で眠っていた地球最後の恐竜が、仲間の声に似た灯台の霧笛に呼ばれてやって来て、霧の中、灯台に向かって、もうどこにもいない仲間を求めて鳴く話。

ブラッドベリが書くSFって、いつもなにかポエジーがあると思う。

(→萩尾望都の漫画版もあったので読んでみた。こちらも原作の詩情そのままで面白かった。)


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by macchi73 | 2016-10-09 22:20 | 面白かった本など | Comments(5)
2016年 06月 03日
自ら歩きまわって穴を掘る植物の種子
この間、なんかの拍子に歩く樹木のニュースを読んで、「そういえば、ずっと前に何かの本で、”歩いて土地を探す種子”ってのを見たはずなんだよなー、あれってやっぱり夢だったのかなー」と、久しぶりにモヤモヤした。懐かしいモヤモヤ。
Exciteニュース:
 → 毎年20mも移動するというエクアドルの歩く木「ソクラテア・エクソリザ」の噂を検証

私の記憶によれば、ずーっと前にどこかで読んだその本(図鑑だった気がする)には、昆虫のような脚を生やした種子が、歩きまわって発芽に適した場所を自分で見つける図解が載っていたんだった。

もう一度見てみたくて、時々思い出しては探してるのに、全然見つからないんだ……。
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↑↑↑ イメージ図(適当)↑↑↑
物凄く朧な記憶だけど、こんな感じの絵だったような。


そうして今となっては、「うーん、やっぱり夢で見ただけかな?そういえば、面白く読んだ気がするのに他のページを全く思い出せないしな……」という気分になって久しいのだった。もやもや。

ちなみに、載っている本が実在するとしても、古代ローマの博物誌とか中世錬金術系とかの空想まじりの植物なんだろうとは、今は9割がた思ってはいるが。でも、本当の本当のオリジナルの記憶は、「へえええ!色んな植物があるもんだなあ」と驚いたような記憶なんだった。……実在は、でも、さすがにしないよね……?


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歩く木といえばコレ。私の子ども時代の愛読書。

『あるきだした小さな木』(テルマ・ボルクマン)

入手した時にすでに古本だった気がするが、やたら気に入って、ボロボロになるまで繰り返し読んだ本。

思い返すに、動物みたいな植物(またはその逆)ってのが、小さい頃からの我が心の琴線ポイントだった感はある。



若い娘のなる果樹や植物羊、マンドラゴラなど、植物と動物の中間種についての記録は、昔から世界中にあった。

『幻想博物誌』(澁澤龍彦)

果実の娘にもマンドラゴラにも動物的な知能はなさそうな感じが、半植半動の絶妙のバランス。「え、なんかそういう種って存在するかも」って半信半疑ながら思ってしまいそうな。

これが喋ったり長靴はいちゃったりしちゃうと、おとぎ話になっちゃうんだよなあ。



半分動物・半分植物といえば、猫草を忘れることはできない。

『ジョジョの奇妙な冒険 (42)』(荒木 飛呂彦)

小学生時代に荒木漫画を読み始め、ジョジョリオン以外はほぼ全部読んだかな?と思っているが、その中でも猫草はベスト25くらい(←あまり高くもないか?)には入る面白エピソードだと思う。

荒木漫画って、誰もクヨクヨしなくって、話はぐんぐん進んで、堂々巡りがないから好きだ。


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by macchi73 | 2016-06-03 23:55 | 面白かった本など | Comments(7)
2016年 04月 05日
庭仕事の喜び(ダイアン・アッカーマン)
『庭仕事の喜び』(ダイアン・アッカーマン)

この間読んで、とっても面白かった本。庭で感じたあれこれを、春・夏・秋・冬の章に分けて綴っている。

ものすごく知識量のある人らしく、連想が連想を呼び、話があっちこっち飛び回るが、それが躍動感があってとても面白い。どこを切り取って読んでも、元気いっぱい、溌剌とした詩のようだ。

夜に裏庭で月を眺めて「人間はあそこまで行ったんだ」とアポロ月面着陸について考えを巡らせてみたり、かと思えば、古代ギリシアの博物学者の思想に想いを馳せて、地球は宇宙の庭であり、私たちはそこで花開いた命の一部なんだ、って面白がってみたり。庭からどんどん、いろんなところに思考は広がっていく。

全体的に、ふざけた論調なのも楽しくて良い。
バラの復活を目にした時の気分を例えて、「弱って死んだ叔父が、ある朝目覚めたら、重量級のフットボール選手になって戻ってきたような驚き」とかなんとか書いてた部分(うろ覚えだけど)は、思い浮かんだ絵面のおかしさに思わず笑ってしまった。そりゃ嬉しいよなあ!
庭づくりをする者は瞬間に生きているが、同時に未来にも生きているし、過去はつねに心にある。どの花にも歴史があり、諍いの物語があり、たぶん病気の物語もあるのだろう。どの花も希望や期待とともに植えられる。庭を褒めそやす訪問者は、その日その時間の庭を味わっているのだろうけれど、そこに住み、長い年月をかけて庭を手入れしてきた園芸家にとっては、あらゆる瞬間が記憶と織りあわさっている。そして、未来図の背景にある景色を思い描くとき、庭はさらに美しく、あるいはあたかも新しい植物が花開くように、ちがう美しさを湛えている。
庭は世話をして、手をかけてこそ庭と呼べる。(略)庭は変化し成長する生き物なのだ。あなたがよく知っているだれかのように、庭は時とともに変化し、それでいながら元のままでもある。庭を比喩やありとあらゆる暗示で染めよう。たとえば「思いやりの庭」。そんな比喩の中では、庭も思いやりも、人生における特別な喜びだ。「教室の庭」では若者たちが育てられる。「不確かな記憶の庭」は、「はるか彼方でかすんでいる、子どものころの不確かな記憶の日々を集めた庭」である。
庭は、成長はしても完成することはない。つまるところ、人間も成長を完成させることは決してなく、運がよければ止まらずにひたすら成長をつづける。成長の足取りは、連続的でもなめらかでもなく、ときによって、ごくわずかしか進めなかったり、つまずいたりしながら、非常にゆっくりとあるいは駆け足で、思いがけない幸運であるいは大きな努力の結果、進んでいく。私たちが成長するのは、生きることは成長することだからであり、そして私たちが、頭で考えるだけでなく、衝動に駆られて、全身全霊で生命を愛するからである。好奇心も、愛も、野心も、信念も、そして多種多様な欲望も、すべて私たちの一部であり、それらが私たちを季節からつぎの季節へと導き、最終的に私たちを形づくる。そうして私たちは成長している。

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私も作者に倣って、月を見上げて38万キロ彼方の地面でも想像してみるか……と真夜中過ぎに散歩に出たけど、あいにくの霧雨で月は見えなかった。

それでも月と自分の間には、頭上を覆う夜桜があり、空との間を埋める細かい雨粒、もっと上には雲の層、地球を包む大気圏、それから静かで冷たい宇宙空間、そうしてやっと月の土があるんだなーと感じられた。

それから水平方面に感覚を伸ばせば、後方にはハアハアと荒い呼吸で追ってくる夫(運動不足)、さらにもっとずっと地面を辿れば、今まで行ったことがあるどんな場所にも、行ったことがない場所にも、野を越え山を越え海を越えて、地面は繋がっているのが体感できる気がした。地面は大小色とりどりの庭や景色に覆われていて、その中に、私の愛着ある庭もある。(と、そんなに世話してないのに言う)

それから、空間と同じ広がりを持って、いまここから過去と未来に伸びていく時間の塊を感じた。アッカーマンは、生きることは成長することだって書いてたけど、私は、何もない暗いとこから発生して、また暗いとこに消えて行くんだなと思った。それって成長なのか、ただの現象なのか。でも自分も、この賑やかな地球上の自然現象のうちの一つで、好ましく思うあれやこれやと等価な何かだと思えば、悪くない気はする。


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by macchi73 | 2016-04-05 23:55 | 面白かった本など | Comments(4)
2016年 04月 01日
泣かない理由
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末っ子が、囲碁をしようと誘ってきた。久しぶりだったけど強くなっていた。さすが今月から高学年に突入するだけある。

本人もいけると感じたのか、珍しく果敢に敵陣深くまで飛び込んでグイグイ攻めの姿勢を見せたが、あー良い感じだけどここに欠目があるからこうなっちゃうかもよ……とバタバタっと逆転負けの結果になったら、「そっかあ、本当だー。うーん……ちょっとタイム、ちょっとトイレ〜」と言って席を外し、しばらくしてから少し泣いたように瞼と鼻を赤くして戻ってきた。そして、「よし、じゃあもう一回やろう!」とサラッとした態度で再挑戦してきた様子を見て、母は感動した。成長を感じた。さすが4月から高学年に突入するだけあるよ!

もっと小さい時は、将棋や囲碁を始める前に「言っとくけど、負けて怒るならやらないよ」といくら念を押しておいても、最後は絶対に怒りだして「つまんない!つまんない!もう嫌だー!!今の無しー!」とか涙と鼻水をブシューと出して、盤上を滅茶苦茶にかき混ぜたりしていたものなのに。

ピノコよ、これは構造的に最後はどちらかが勝ってどちらかが負けることが避けられない仕組みのゲームだからね。勝つこともある、負けることもある、それを理解して成り行きを楽しむっていう風にできない相手と勝ち負けゲームすんのは、お母さんは嫌だよ、楽しくないよ。一局一局でギャーギャーいう格好悪い真似はやめて、まずは勝ったり負けたりしながら上達すること楽しもうよ。負けて泣く子とは、協力ゲームだけ一緒にやるよ……とか、毎回クドクド言ってた甲斐があったか。わかってくれたか。

……なんて、感慨に浸っていたのが、夕方のこと。

夜、お風呂に入りながら、さっきの囲碁は偉かったねーと言ったら、「うん、全部グチャグチャにしたかったけど、そうするとお母さんと喧嘩になるからね」とか言う。えっ、そうなの?そんな理由なの!?しばし、呆然。

それから段々、すごく可笑しくなってきた。
娘は、私がクドクド言ってた内容じゃなく、うるさい相手と平和裡に事を進めるための方法を学んだ訳だな。それ、相手に言わないで隠しておけるようになったら、もっと上級なんだろうけど。(あ、でも敢えて言うのも、意外と良いのか?)

まあ、人の言動から、何を学ぶのかは自由だ。そして私は教え下手だ。


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負けたくない繋がりで。
絶対泣かない、泣けない、けど負けそうな時にスマートに振舞うこともできない、不器用でスーパー勝気な人の話って、なんかグッと来て、微妙に馬鹿馬鹿しいから好きだ。自転車のランス・アームストロングしかり、脱出王のフーディーニしかり(でもフーディーニの方が周りに愛があるせいで殺伐感がない)。たぶん、ずっと、自分にはできる、自分にはできるって、言い聞かせるようなところあるんだろうな。頑張れよ!と思う。

『フーディーニ!!!』(ケネス・シルバーマン)

これは写真もいっぱい載ってて面白い伝記だった。

フーディーニは、アメリカで「脱出王」として有名になったハンガリー出身の奇術師。最愛の母を亡くしたことが原因で、当時流行っていた降霊術に興味を持ったが、トリックと見破ると、超能力や心霊術のいかさまを糾弾する活動でも名を馳せた。常に引くことを知らず挑戦的な態度は面白がられもし、憎まれもしたようで、楽屋に来た若者に「腹を殴られても平気ってホントっすか?」(実際は、そんなことはフーディーニは言ってなかったが)ってな感じで絡まれて、受けてたったことが死因となった。自分の死の直前には、もし死後の世界があるなら絶対に連絡するからと、妻のベスとの間に暗号を決めていたことでも有名。
いったいフーディーニはどのようにして開けたのだろうか。不確実であるがゆえに絶えず人の頭を悩まさずにはおかない、それがフーディーニの名声を保ち続けてきた主な要因である。フーディーニの脱出は、迷宮入りの大犯罪のように、曖昧さをいっさい排除して生きたいという人間の願望を損なう。謎は解明されることを切望しながら、解明されないまま、その神秘を永久に保存している。(略)

フーディーニはハリー・ケラーの葬儀の模様をフィルムに撮っていたから、もし誰かが彼の葬儀の一部をカメラに収めたということを知ったら、さぞ喜んだことだろう。一分そこそこの長さでしかないが、車の行列や埋葬シーンの断片が今も残っている。(略)

四方八方から花が、弧を描き、輪を描き、あるいはまっすぐに落ち、わずかにコマ送りのスピードを遅くしたフィルムの中で無数のぼやけた筋となり、その隙間からは参列者たちの顔もほとんど見えない。ましてや表情を読み取ることなどできそうにもない。驚いているのだろうか?不愉快なのだろうか?ただ疲れているだけ?それとも花が投げ入れられるのを見て心の内を顧み、自らに思いを巡らし−−きっと考えているのだろう。自分もまた秘密を抱えて逝こう、と。

当然、BGMはフォスター・ザ・ピープルの"Houdini"で決まり(動画もとても面白い!)。
このアルバム(『Torches』by foster the people)は、全曲それぞれに変なフックがあって飽きない良盤だと思う。





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by macchi73 | 2016-04-01 21:30 | 面白かった本など | Comments(2)
2016年 01月 05日
冬休み終わりの漫画
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楽しかった冬休みも、もう終わり。この休みはずっとお天気で楽しかったな。

最後の日は、朝から庭に出て、ぐうたら過ごした。
子供がお茶を入れてくれたので、昨日作った保存食を持ち出して庭で食事したり、本を読んだり。午後は小学生につきあって公園でボール遊びしたら、子供たちの体力に負けてクタクタ。

明日からまた仕事だ。頑張ろう。
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庭のハンモック、すごく気持ちいい……夫がいつも定位置にしている気持ちがわかる。

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昨日に引き続き、漫画の話。
こちらは、周囲から浮く変人系の物語とは逆で、普通にその辺にいる人の中のドラマを扱った物語。

詩情を楽しむ漫画ではなく、かと言って、ぐいぐい引っ張るストーリーがある訳でもなく、だけど何となく風変わりな感触があって面白かった。

『11(じゅういち)』(いがわ うみこ)

主人公の春義に関わる女性についての短編11話。絵がちょっとふざけた感じなんだけど(たぶんワザと)、それが話に合っていて、段々と可笑しくなる。

少し珍しかったのは、主人公の内面は描かれずに、他の人との関係性で徐々に分かってくるっていう構成かな。現実では、誰も自分の内面はいちいち語らないので、現実に似た感触とも言える。

こういう感じの人って、その辺にもゴロゴロいると思う。つまりその辺にいる人たちみんなの中にも、それぞれ独自の物語はある……って話。下手すると暗くなりそうな内容だけど、それを上手い感じにかわして、腑抜けた感じに笑えて、読後感は爽やか且つ妥当。

作者あとがきで、「おバカなハッピーエンド」と書かれていたが、いい感じかも。
個々の話としてクローズアップしてみれば誰の生だって変なところはあるけれど、世の中全体としてみれば大抵ありふれた話なんだから、それぞれで何とかいい感じにやってくものだ、みんなそうだ……って、ちょっと投げ出すようなエンディングに感じて、笑えた。

同作者の本では、これが一番好きだったけど、他の本も割とムラなく面白かった。大学生の長女に特に好評。女性向けという感じは、ちょっとする。


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by macchi73 | 2016-01-05 19:00 | 面白かった本など | Comments(5)
2016年 01月 04日
自家製りんごバター
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【りんごバターの作り方】
(1)リンゴ1個を薄く切って、砂糖2匙とバター20g程度で炒める。良い香り!
(2)リンゴがしんなりしたら、ハンドミキサーでペースト状にする(ミキサーがなければ、最初にすり下ろしたリンゴを炒めるのでも良いようだ)。
(3)少し冷めたらバター60g位をさらにドンと加えてよく混ぜる。好みでレモン汁を一振り、シナモンを少々。
(4)冷蔵庫で冷やし固めて、保存。


冬休みも終わりが見えてきたので、平日には遅々として進まなかった実家に頼まれていた用事を二日かけて片付けた。朝の6時過ぎに全部終わって、そのまま眠っちゃって、起きたら12時近く(昼の、で良かった)。ううー、頭イテ。でも、これで休み前にずっと気掛かりだったことも全部片付いた。まだ休みは残り1.5日残ってる。やった!

で、「寝坊だねー」と末っ子が友達と冬休みの宿題を片付けに出かけた間に、冬休み後に料理を手抜きできるよう、ちょっと作り置きをする。

まずは庭で収穫したレモンが幾つか残っていたのでレモンサワーにした。途中、ご近所さんが遊びに来て柚子をくれたので、ちょこっとだけ柚子も加える。柑橘類のサワーはすぐできるから、3日もしたらもう飲み頃だ。

それから他の方のブログでりんごバターというものがあるのを知って、作ってみる。
色んなレシピがあるみたいなので、家にあるもので適当にやってみたが、出来上がったら、びっくりするほど美味しい!
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さらに、宿題が終わった子供を助手にして朝食手抜き用のスコーンなどをどんどん焼く。食事用に、甘くないやつ。紅茶スコーンとプレーンなスコーン。それから腹持ちの良いオートミールのクッキーを2種類、ナッツとココア。これで早起きできなかった朝は、スコーンにりんごバターをつけて出せばいいだけだ。ふっふ。
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保存用に君のジャーをかしてくれ、と末っ子に頼んだら、アレはクリスマスプレゼントの海賊の宝物入れにしてるからダメだよ、と断られた。ちぇ。仕方ないから、近所の雑貨屋に行ったら、似たようなものが新春セールで数百円で買えた。嬉しい。

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確かに、めちゃくちゃ宝が入っている……。

焼き時間の間は、ごろごろしながら新しく買い込んだ漫画を読んだりする。何冊か当たりがあって嬉しい。

匂いにつられてやってきた子供たちが出来上がったクッキーをすでにつまみ食いしているので、もしかしたら休み後まで持たないかもしれないけど、今回で簡単なレシピを知ったので、週1くらいで焼き足すようにしようかな。

……なんて思っても、仕事が始まるとなかなかやらないんだけど。一応、抱負だけは。
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この冬休みに読んだ漫画で、一番予想外のヒットだったのは、宮崎夏次系の『ぼくは問題ありません』。表紙が変なので、よくあるヘタウマギャグ路線かなーと思って読んだが、中身は詩情溢れる感じで、とても良かった。

『僕は問題ありません』(宮崎 夏次系)

周囲からちょっと浮いてる変人たちの短編集……っていうと、ありがちに感じるけど、それぞれ何か美しく。

絵も、実は結構上手というか、綺麗だと思う。

上の子たちも「これイイよ!」と言うので、同じ作者の本を他にも買ってみたが、これが一番好評の一冊だった。



お話に余白が多くて詩情溢れる感じは、市川春子にも通じるものがあると思う。両作者の詩情の路線は違うけど、いずれかが好きな人は、もう一方も好みそうな。

『虫と歌』(市川春子)

このブログのコメントで教えてもらって読んだら、凄く面白かった本。どの話にも、人間以外のナニカに対するフェティシスムが漂うのが、この作者の独自路線かも。

同じ作者の本を何冊か読んだが、この短編集が一番楽しめた。中でも、「日下兄妹」という話は、SFのストーリーとしてもオチがちゃんとあって、ポエム好きじゃない人でも、面白く読めると思う。

子供たちにもとても好評だったが、同作者のこれ以外の本は「段々マニアックになってきて分かりにくくなってるね……」との感想(私は他のも割と好きだけど)。



ちなみに、このブログで紹介している本のリンクからamazonで本が買われると、amazonから3%のポイントがもらえるので、私は漫画はそのポイントでだいたい買っている。どんな人たちが買ってくれてるのかは分からないけど、同じ本を読んだ人が、どこかで面白いと思ってくれてたらイイなーとか思いつつ、この場を借りてお礼を言いたい。おかげさまで去年も漫画を色々と読めました。ありがとうございます。
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by macchi73 | 2016-01-04 12:00 | 面白かった本など | Comments(2)
2015年 12月 02日
夜の昆虫標本、生き物を殺す
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最近リフレッシュのために夜の1時台には眠るようにしたら、やれることがいきなり少なくなってしまった。がーん。一日ってこんなに短いのか。

それでもあいた時間に何となくやっちゃうのが、深夜の散歩(一人で、または誰かと)、ピアノの練習、それから生物系の調べ物とか。机の上の仕事の本には、なかなか手が伸びないのに……。つまり、これが自分の娯楽なんだろうなと思う。

この間は、子供を誘って、ついに昆虫標本教室に行ってしまった。
それがとっても面白かったので、手持ちの昆虫の死骸を引っ張り出してきて、自宅でも標本作りをし始めたりしている。疲れた中年が、夜の書斎で。一人っきりで、虫の死骸を。これって、どうなんだろう。
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自然の中で生きて動いている生物を見て、図鑑で名前や生態なんかを調べるのは楽しい。それで勝手に親近感を覚えるようになった生き物がうちの庭にはいっぱいいて、毎年姿を見かけるたびに「あ、また会えた」と思う。それで触ってみたり、子育ての様子を観察してみたり、時には飼育してみたりしては、くすぐったいような気分になる。だいたいこのブログの【生物】カテゴリに載せてる観察日記は、そんな感じのものだ。

だけど、その一方で、自分には蒐集癖っぽい性質が強くあるのも感じる。
例えば、生物を見かけたら(殺す替わりに?)写真を撮っているが、手持ちにない種を撮れた時には、やたら嬉しい。なのに一度でも撮影した種に対しては、「あ、これはもう撮影済みだな……」と思ってしまい、カメラは構えずにサラッと見るだけで満足だったりする。つまり、データ収集癖。とにかく数とバリエーションが欲しいんだ。

だからよく知らない生物を見かけると、非常にがっつり見てしまう。生きてても、死んでても。手元に保存して並べたいという気持ちが湧いてきて、なんとなく恥ずかしくなる。そういう欲求って凄く幼稚で、ちょっと後ろめたい気がするので、だいたいそっけない感じを装っているが、変わった生物がいると呼ばれたり、人から「これあげる」と虫の死骸なんかをもらうことがしばしばあることを考えると、多分だだ漏れなんだと思う。

そういう風に生物をモノ扱いしてただ蒐集したい気持ちと、庭のなじみのメンツそれぞれに感じる生きてる親近感と、両方あるんです!と、強く言い訳したい気分だ。
……誰にむかっての言い訳?って考えると、よく分からないが。

とりあえず、生きてる状態の生物を見ることは好きで、庭の害虫とか言われるものでも殺したりしたことはあまり無い。でも、このままハマるとぜったい子供っぽい蒐集癖が顔を出してシリアル昆虫キラーになっちゃうんだろうなー、それはどうかなーとか思ったりだ。

他の人たちの昆虫標本などに対しては特に悪く思うところは全然ないんだけど(寧ろめちゃくちゃ見せて欲しい)。自分の欲求は、なんかちょっと居心地悪く。

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とは言え、私は、生物は種によってかなり違ったように世界を見たり感じたりしてると思うので、あんまり、可愛いとか、擬人化した友情なんかを感じている訳でもなく。
死ににくい人間より、死にやすい昆虫などの生物は、もっと死や痛みに無頓著な作りをしていて、人間の個の意識とは全然違うところで生きてるはずだと思う。
だけど、それでもやっぱり一回死んだら生き返らないとか、絶対的なラインでは共通するところがあって、一緒の仲間のうちなんだとも感じる。

何かを殺すということを考える時、いつも思い出すのは、この本。

『動物感覚』(テンプル・グランディン著)

著者は自閉症の動物科学者で、屠殺場のデザインなんかに関わっている。

動物にとても親近感を感じているっぽい著者なのに、屠殺場場デザインなの?って一瞬おどろくけど、できるだけ動物たちが恐怖を感じず、殺されるまで安らかに暮らせるような工夫を研究している。自閉症の自分と、動物たちの物の認識方法には共通点があると考えているようだ。

人間が雑食の機能を持つ以上、個人がベジタリアンになったりすることはあっても、人類の肉食がなくなることは無いだろう。食べられるための家畜という存在もなくならないだろう。

でも、グランディンの本の中に、「それでも家畜たちは毎日、楽しいことを待って暮らしている」って感じのところがあって(うろ覚え)、そりゃそうだ、生物なら皆そうだと、強く思った。どうせ殺して食べるからって、恐怖や不快の中で暮らさせるのは無しだよな……。せめて楽しい日々の後になら、生物は誰もが死ぬんだから、殺されたり食べられたりっていう死に方も終わり方の1つとしてありなのかなと思ったり(でも逆に、生物なら誰でも、殺されること自体が嫌だろうってところもあるかもだが)。


人間の望む性質を強めるための交配で、特定の種が、どんどん(望まれた面以外でも)偏りを強めて、ある意味、精神に変調をきたしてしまうこともあるという話は怖かった。

それともう一冊。
このところ末っ子が、「このお話しとっても面白いんだよ、あのね…」と、夜の散歩やベッドでストーリーを教えてくれてる本。

『岸辺のヤービ』

私は子から話を聞かされているだけだが、食べることに伴う殺生を思って物を食べられなくなる妖精的なものも登場したりする話。

「(生命を)いただきます」系の話って、メタ視線で生命の繋がりに感謝することで捕食って浄化されるのか?単に人間の一番快適ポイントをみんなでそう言ってるってだけじゃないのか?と感じちゃう事も多いけど。ヤービは自分が愛着のある相手も捕食される側で、せっかく生まれて来たのに!って叫びがあるのが、捕食ピラミッドの上からだけじゃなく、私たちみんなそう作られてるっていう諦念(?)みたいなのも感じられる気がした。
「パパは、蜂の子を育てて、それを家に持ってかえるとき、どんなきもち?」
 これをきいて、パパはちょっと目を閉じ、
「そういうことが気になる日も、たしかにあるね。そのときは、ごめんね、ってこころであやまるんだよ」
といいました。それから、ヤービをじっと見て、
「それで十分だと、パパは思うんだ。同じ、生きものどうしだからね」
と、しっかりした声でいいました。
「羽化がはじまったのよ!」
と、ママがさけびました。
「魚たちがそれをねらってとびはねているの!」
 キャリが体をななめにし、ヤービが下を見られるようにしました。カゲロウたちはよく見えなかったのですが、あちこちで魚が必死でジャンプしているのが見えました。その狂乱ぶりから、きっと虫たちは無数に飛んでいるのだろうと思われました。

「せっかく羽が生えたのに!空が飛べるのに!」
 ヤービがヨンのこと−−ヨンがいつか成虫になること−−を思い出して、哀しくさけびますと、
「でも、いいのよきっと。同じ生きものどうしだもの」
 セジロは、いっしょうけんめいな魚たちを見つめながら、パパ・ヤービのいったことばをつぶやきました。

斯様に、生き物は食ったり食われたりで回ってる……けど、人間ってまず食われないんだよなあ。生命の、持ちつ持たれつの仲間に入って無い感が凄い。それで色々と考えちゃうのかも。殺すばっかり搾取ばっかりで、自分たちずるく無いか?と。多分、私が「昆虫標本!?大好きさ!イエイ、ずらっと並べちゃおう!」と嗜好のままに堂々とできないのも、そういうとこが大きいのかと思う。

きっと標本のための昆虫採集とか、物凄く楽しめる自分だろう……そのうちバンバンやりだす可能性も高い……そして、こんなテキストを残したことを後で決まり悪く思うだろう……とか分かりつつ書いておく。人って事後には自己正当化も麻痺もするからな。決まり悪さくらいは覚えて置くべきかと思う。殺しの後で美味しくいただいたり飾ったりする時、もし何か表明しなくちゃいけないとしたら、「(生命を)ありがとう」じゃなくて「ごめんなさい」だろうな。




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by macchi73 | 2015-12-02 01:44 | 面白かった本など | Comments(6)
2015年 11月 06日
卵のように軽やかに
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庭隅にレモンが鈴なりだ。収穫して肉と焼いて食べた。

我が家のレモンは、グランドレモンという品種(マンダリンとの交配種らしい)。
味は、酸っぱさの中にもなんとなく甘さがあって美味しい。レモンっぽくない滑らかな薄い皮をしていて、大きさは普通のレモンより少し大きく、形はレモン型ではなくて卵型をしている。

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卵型つながりで?

このところずっと夜は一人で過ごしていて手持ち無沙汰なので、『卵のように軽やかに』を始め、エリック・サティに関連する本を何冊か続けて読んだ。


サティが書いた文章やイラストを集めたアンソロジー。表紙もサティの自画像。

サティの文章って、面白いんだけど、わざとひねくって剽軽に書いてて、なかなか正体が見えにくい感じ。

手描きイラストの方には、ヘンテコなおかしみがある。イラスト中に書きつけられているテキストも面白い。



その中で、一番面白かった一冊は、サティが描いた装飾的な楽譜を頁にそのまま散らしてある『エリック・サティ詩集』。

『エリック・サティ詩集』(藤富保男訳編)

すごくかわいい感じの中身で、サティって子供っぽい人だったんだろうと感じられた。肉筆楽譜のページが多くて、サティを身近に感じられる。楽譜の隣に、装飾的な絵のような文字で文章が書きつけてあったりする。

文書だけまとめて読んだ時はそれほどには面白くなかったサティが、手描き楽譜が入ると、何故かいきなり面白い(または、翻訳がすごく良い)。それと、訳者の藤富保男氏が挿入する小文やカット、各ページのレイアウトがとても良い。

読みながら笑って、ほのぼのした。



次いで面白かったのは、いろんな切り口からサティを紐解いた、アンヌ・レエの『エリック・サティ』。これは本としての内容が面白い。



サティの死後、彼が一人暮らししていたガラクタだらけの部屋で見つかった葉巻箱の中には、きちんと切り抜かれた小さな紙片がいっぱい詰まっていて、綺麗な色インクで縁取りされ、いろんな絵や文章が書きつけてあったらしい。

それがあのヘンテコなイラストとかなのか……と思うと、なんとも言えない気分になった。

本の中では「こんな無意味にサティがどんな悦びを見出していたのか、よく分からない」なんて言われてしまってもいたが、いやあ、ひとりぼっちで暇だとそういうのやるよな……やるよ……とか思ってしまった。

ちなみに私も一人暮らしの頃やらかした。そして何を思ったのか、恥ずかしいことに一人のクラスメートに見せた……とても活発かつ外向的な友人だったので、多分、意味がわからなかったことだろう。大人になってからは海外のリゾート地で暮らすその友人に、今週 7, 8年ぶりくらいに会って、相変わらずのピカピカで力強い笑顔を見ては、ちょっとその事を思い出したり。



「夜になると、彼らは夕食をとり、それから浜辺に出てパイプをふかすのだった。煙草の香りが魚たちにくしゃみを催させた。ロビンソン・クルーソーにとって、無人島の暮らしは楽しくはなかった。『ちょっとさびしすぎるな』と彼はいう。少年のフライディもおなじ意見だった。主人に向かってこういうのである。『そうです、旦那さま、無人島、ほんとにさびしすぎる。』そして、その大きなまっ黒な頭を振ってうなずくのだった。」

こんなさびしい小文を誰が書いたのか? 有名なエリック・サティである。死の一年前に。真の友もなく、子もなく、ただ有名ではあったサティ。(...略…)

しかし、サティも楽しくはなかったにちがいない。彼の無人島での暮らしは −− アルクイユのサティの部屋、二十七年間住んでいたが、彼の存命中は誰ひとり足を踏み入れることのなかった「象牙の塔」での暮らしは。サティの死後、不透明になった窓ガラスや、クモの巣や、壊れたピアノの蓋の下に隠された紙クズや、そのほか山のようなゴミや虫が発見された。(...略… )

「無人島は、時にはちょっとさびしすぎる」から、サティはひそやかに嘆き声をもらした。あるときは言葉で、またあるときは音楽で。


それから、ジャン・コクトーによるサティについての本。
翻訳者が安吾で、ちょっと驚いた。そんな時代か。


コクトーには、いかにも時代の寵児って感じの華があって、サティについて書いても、コクトー色の方が勝つ。これはサティの本というより、コクトーの本だな。多分、コクトーが表現したい思想があって、それにサティがぴったりだったから、担ぎ出したって感じもあるだろう。

ピカソ、コクトー、サティで舞台をやったりして3人は交流があったようだけど、堂々と煌くピカソとコクトーに比べ、サティはどうしても垢抜けないショボい感じが漂う気が……。



そのサティの多少のショボさを感じて、町田町蔵の『壊色』という本にある「ふぬけの悲しみ」という短文を思い出したりする。
 みんなはふぬけについて考えないか。
 僕はつい考えてしまう。
 ふぬけというものはどういうわけか公園に一人でいることが多い。そして公園には小学生くらいの子供が遊んでいる。ふぬけは思う。「私は子供らと遊びたい。(...略…)」そしてふぬけはパン屋に走ってつまらぬ駄菓子を大量に買い、子供に与える。しかし子供はそんなものに喜びはしない。そこいらに投げ捨ててどこかへ行ってしまう。ふぬけは駄菓子の散乱する人気のない公園に一人、しょんぼりと立っている。ふぬけは小声で言う「どうもうまくいかんね」ロマンチックな音楽が流れている。 
 このようにあらゆる局面において現実はふぬけを打ちのめす。そしてふぬけはしょんぼりする。そして言う「どうもうまくいかんね」そのときふぬけの口は尖っている場合が多い。しかしふぬけ本人はあまり気にしていない。あくまで見た感じしょんぼりしているのであって、それはふぬけの意識とは無縁である。ただふぬけの心の奥底がどうなっているかはわからない。このしょんぼりは僕には相当こたえる。見ておられぬものがある。ということはその心の奥底にははやり奇怪な悲しみが蠢いているのではないだろうか。

そうやって、昔に生きてた人たちの様子を読んで、不思議な感じに浸る。
ふざけたり怒ったり皮肉ったりして素の自分を韜晦してた、ひとりぼっちのショボいサティの姿が目の前に浮かび上がって来るような気がした。ま、本当にそんな人だったかは、分からないけど。想像。

でも、130年も前の狂乱の芸術の都パリの汚い部屋でひとりぼっちで暮らしてた作曲家がいて、そこから時間も場所も遠く離れた東洋で、ピアノ素人がその曲をポロンポロン弾くことが起こるってのは、妙な感じだ。人間って、記録を通じて時空を超えられるところが、他の動物と違うところかも。

サティが「家具の音楽」として発案した”意識的に聴かれることのない音楽”っていうのが、その後のアンビエントやミニマル、BGM系の音楽へと繋がっていったということだ。サティの曲をもう少し弾いてみたかったけど、近所に楽譜がなかったので、替りにルドヴィコ・エイナウディの曲を弾いてる。イージーリスニング、イージープレイング。


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by macchi73 | 2015-11-06 23:55 | 面白かった本など | Comments(0)
2015年 10月 11日
ゆっくりと、苦しみをもって
天気の悪い連休、家の奥の狭い部屋に引きこもって過ごす。持ち帰り仕事。

末っ子が足元で粘土工作を始める。そのうち、大きな羽根布団を私の机の下の狭いスペースに持ち込んで、ふかふかの中に埋もれて本を読む姿勢で落ち着く。つられて、私の足元も暖かくなる。家族の会話はそんなに無いが、これはこれでありだと思いたい。
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暇な時間にはピアノを弾いてた。
ここ数日でサティの「ジムノペディ」を覚えた。
ちゃんと弾けるよう、ペダルを買ってきた。それからヘッドホンも。
深夜、目が覚めた時に暗い部屋でヘッドホンつけて暇つぶしに弾いてると、月夜の船で一杯やってるみたいなゆらゆらした気分になる。安らかで楽しい。

で、本当はどんな風に弾くもんなんだろうと思って調べたら、サティ自身からの指示は「ゆっくりと苦しみをもって(Lent et douloureux)」だと知った。ええー、苦しみか……想像してたのと違ったな……。

Wikipediaによれば、大勢の青少年が全裸で踊る古代ギリシアの祭典(ジムノペディア)に曲想を得て作られた曲らしい。踊りの情景なのに「苦しみをもって」っていうのがすぐにイメージできないけど、古代ギリシアはそうなのか?目を瞑って、想像してみる。(ボリウッドの群衆ダンスが浮かんでかき消す)

ギリシアと言えば、学生時代の古代ギリシア語クラスのイメージ。
そういえばその時の『イーリアス』の両軍激突の場面、群衆の中で倒れゆく青年兵士1名にいきなりクローズアップして長々と壮大な比喩で語り出したりして、やたらスローモーというか、重厚かつ大仰だった記憶がある。"ゆっくりと苦しみをもって"、そんな感じなのか?

重い足を引きずって、もたれあいながら、ゆっくりと踊りを捧げる青年兵たちを想像して弾いてみる……ぐったりと疲弊して……カモウオー、カモウエイス、カモウエイ、カモウオメン、カモウエテ、カモウシン?(適当)

「人間はオリュンポスの神々の与える運命に勝てません」ギリシア語の先生の顔を思い出したりしていたら、あれ、疲れた兵士に乗っ取られて、ゆらゆらする月夜の船がなくなった。がーん。

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動画を見たら、思ってた弾き方じゃなくて驚いた。
左手だと思ってたとこが右手だったり。
で、何件か動画検索してみたが、どうもみんな同じ方法で弾いてるっぽい。ピアノの指使いって、字の書き順と同じように、正解が決められているものなんだっけ?そしてそれはどこで知る?




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作曲家のエリック・サティは、コクトーと組んだ舞台の楽曲も作っていたと読んで、久々にコクトーを本棚から引っ張りだして読む。

……恐るべき姉弟の子供部屋と、自分のデスク周りが重なった(主に散らかり具合が)。

『恐るべき子供たち』(ジャン・コクトー)

毒薬、写真、がらくたなどの雑多な宝物に溢れる混沌の子供部屋を神殿として、大人になるのを拒否した姉弟の物語。

コクトーの本の中で一番面白いと思う。
だけど、いかにも1920年代パリって感じの芸術至上主義っぽい才気キラキラ感は、やっぱり若い頃の方がグッときたなーとも感じた。ってか、「子供の無邪気な残酷さ」みたいなのって、実際に子供を近くで見るようになればなるほど、大人の作ったある種のファンタジーってとこもあるよなあ?って感じもしている。

あと、生年から考えるに、サティはどっちかっていうとベル・エポックの人で、コクトーたち狂乱の世代より一世代前って感じかな?

サティも色々と面白い人だったようだ。
コクトー以降の一時期は、みんな意識的に変わり者をやってたと思うけど、その一世代前の変人は、もっと止むに止まれぬ地に足がついた変人が多い気がする。著作もあるみたいなんで、今度見てみよう。



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by macchi73 | 2015-10-11 23:55 | 面白かった本など | Comments(4)
2015年 08月 06日
センス・オブ・ワンダー
楽しかった夏休みも終わって、私は仕事の日々に戻った。
私以外の家族は全員まだまだ夏休みで、夜に仕事から帰ると、家の中にふわふわした休みの雰囲気が漂っている。

明るいうちに帰宅すれば、夕方の散歩が待っている。
ピンク色の夕焼け、蝉の声、虫捕り網を持った末っ子の駆け足、陸橋から見る小さい夜景。

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蝉の声が降ってくる木の下で、あ、と立ち止まって、「ねえ目をつぶってここ立ってみて」と娘が言った。その通りにしてみたら、「いいよ」と今度は私の体をぐるっと回して、「もう一回、目をつぶって聞いてごらん」と言う。そして、「ね、面白くない?」と聞いてくる。

まるで謎かけみたいだけど、実際にやってみればすぐに分かった。
木に向かって立てば、体じゅうが蝉の声に包まれる。背を向けて立てば、少し和らぐ蝉の声。
その後は、ずっと二人で左右にブルンブルン首を振りながら夕方の林沿いの道を歩いた。首を振るたび、蝉の声が大きくなったり小さくなったりする。珍しい音の世界を歩いている感じ。(←見ている人も、珍しい首振り親子を見てる感じ?)

暗くなれば、他の家族とも待ち合わせして、新しくできたタイ料理のお店で食事して帰る。
食後、子どもたちの絶え間ないお喋りが一緒くたになって、わあわあ言う蝉の声にまた似てる。湿ったドライヤーのような温風(熱風?)に吹かれて歩いていたら、ここは南国みたいだとクラクラした。子どもたちと一緒だと、どこにいても時々、知った風景が珍しい新しい場所みたいに感じられる。

そんな感じで、自分の休みは終わったけど、まだまだみんなの夏休みのおすそ分けをもらい中。

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ふと思い出したのは、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』。

たぶん夜の海でぞくぞくして二人で笑い合ったとき、大御所レイチェルが小さいロジャーに与えた影響より、小さいロジャーがレイチェルに与えた影響の方が大きかったのではと思う。そして、小さいロジャーは、大きくなったロジャーとは地続きの存在のようでいて、その一瞬だけのなにか別物でもある。子どもって呪物だ。

『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)

作家レイチェルが彼女の姪の子である小さなロジャーと一緒に自然の神秘に触れる日々を綴ったコンパクトな一冊。その後、ロジャーは5歳の時に母を失い、レイチェルに育てられた。

原本の扉に記された、編集者からの短いコメント:
レイチェル・カーソンはこの『センス・オブ・ワンダー』をさらにふくらませたいと考えていた。しかし、それを成し遂げる前に、彼女の生命の灯は燃え尽きてしまった。
生前、彼女がねがっていたように、

この本をロジャーにおくる
生前のレイチェルが本をおくりたいと願ったのは、彼自身の人生を生きている本物のロジャーだったか?それとも記憶の中の小さいロジャーだったか?と考えたとき、後者なんじゃないかなあとか、ふと思ってしまった。

訳者は書いている。
一九八〇年、私はこのロジャーと対面することになった。(中略)私が会ったロジャーは、ボストンに住む、背の高いがっしりとした青年になっていた。その頃は音楽に関する仕事をしていて、ナイーヴな繊細な神経の持ち主のように見受けられた。レイチェルのことは、まだ子どもだったのでよく覚えていないなどと語っていたが、誇りに思っているのは確かだった。『沈黙の春』の業績に対して与えられた数々の賞のうち、レイチェルが最も喜んだという、シュバイツァーメダルを大切そうに出してきて見せてくれた。私はもう一度、メインの潮風の下でロジャーに会いたいと願っている。聞くところによると、現在ロジャーは、コンピュータ関連のビジネスマンで、二児の父ということだ。
それで私は、また勝手に想像。
『センス・オブ・ワンダー』は確かに人生の素晴らしい瞬間を切り取った本ではあったけど、大人になったロジャーの中でのレイチェルの存在は、そんなに大した割合はなかったんではないか、とか。少なくとも、レイチェルが小さいロジャーを思い出したようには、大きいロジャーはレイチェルを思い出さなかったのでは、とか。

子どもと一緒に過ごす一瞬って、それ自体でキラッとした輝きがある(こともある)っていうだけのもので、実はそれ以外の大した意味はなく、子どもたちはどんどん色んなものを後ろに置いて進んでいく。だから自分もそこに居合わせてラッキーくらいの気持ちで、その短い瞬間を、センス・オブ・ワンダーを、適当に楽しむくらいで良いかもなと思ったり。


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by macchi73 | 2015-08-06 23:52 | 面白かった本など | Comments(3)