『動物たちの喜びの王国』(ジョナサン・バルコム)
2017年 11月 21日
そうして今日読んだのは『動物たちの喜びの王国』(ジョナサン・バルコム)。結論から言うと、すごく面白かった。人間以外にも喜びや楽しみ、遊びの心があるのか?っていう話。地球上の様々な生物に見られる行動や実験結果などが載っている。
まずは「人間以外の生物にも痛みや苦痛はあるか?」というテーマの研究が昔から数多されている事実には少し驚いた。研究するまでもなく当然あるだろ、特に脊椎動物であれば人間とも殆ど体のつくり同じなんだしって当たり前に思ってたが(でもそういう感覚って、東洋人に強いのかもしれない)。そこからまた一歩進めて、「では、様々な喜びもあるのだろうか?検証、考察してみよう」というのが本書の眼目。
一八世紀の哲学者ジェレミー・ベンサムは動物に関して有名な言葉を残した。「問題は、話すことができるか、理性的に考えることができるかではなく、苦痛を感じるかどうかである」。
(…略…)
わたしたちが、動物が感じるのは痛みや苦しみだけだと信じているのなら、その痛みや苦しみを取りのぞいてやればすべてうまくいくだろう。しかし、動物たちが喜びの感情ももつとわかれば、話は違ってくる。彼らから喜びを奪うのはよくないと思うようになるのではないか。
(…略…)
道徳的に考慮してもらう資格があるかどうかは、理性があるからというよりも、世界を感じとることができるかどうかで決められることを忘れないでほしい。それはほかの動物たちも同じであり−−というよりも、同じ資格があると考えるべきなのだ。
個人的には、人間と同じ感じ方ではないにしても、動物にだって悲喜こもごも色々あるのは当然のように思える。うちの庭にくる野鳥たちの様子なんて、まさに楽しみのために遊んでるのが明らかに思えるし。この本の中で触れられている、知覚能力や生活環境が違う生物たちは、私たちが感じたことがない喜びや感情も経験している可能性があるというのはわくわくする話だ。前に調べた、一生の大半を遠洋の空中で過ごす鳥セグロアジサシの高揚感とか、きっと自分には想像もできないんだろうなと思いつつ、想像してみたりする。
しかし、魚や昆虫にも気質の個体差が見られるというところは、ドキッとして少し痛みを感じた。簡単に死ぬことを見越して膨大な数を産む戦略の生物に対しては、ついつい種全体で一つのように認識してしまって、個体の喜びという視点ではあまり見てなかったと気づく。だけど、これまで観察してる時にも、ゆっくり揺らす触覚、陰影をすり抜ける滑らかな泳ぎ、満足感とか快感とか何かは感じてるのかもと思わされることは確かにあった。
そんなこんなで、没頭して面白く読んでしまい、気づいたら真夜中。机の上には、本を読み始める前に読み書きしてた仕事のレポートや資料がそのまま散乱。うわあ。
でも、後悔はしていない(と締切日にも言い切れるかは不明)。
この頃、人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとしオンリーのような話を聞くことが続いたりして、そういう時、何かがごっそり抜け落ちてしまっている感じがあって、ううーん、ってただモゴモゴしてしてしまうことが多かったが。なんていうか、この本を読みながら、人も、辛いことを取り除くだけではダメなんだろうなと思った。この地球は辛いことと同じく喜ばしいことにも溢れてるっていう感覚が必要だ。で、その喜びは、別に正しい人、頑張ってる人、心ある人とかだけに許されるものじゃなくて、あらゆるものにあって良いんだと思う。そのために出来ることは何なのか……。
本の最後、野生のチンパンジーの一匹が、夕日に見とれて食べるのも忘れて立ち尽くし、暗くなったのに気づいて慌てて去っていく様子の記述が可笑しかった。チンパンジーは、少なくともその瞬間はそれほど飢えてもおらず危険にも面しておらず、美しいものを見て物思いにふけり、日々の心配や生活に必要なものがいっとき抜け落ちた。それって快い時間だったろうし、その種の喜びって地球上に絶えず起きている。
「動物の生活は常に生存のための闘いである」という決まり文句が、大きな獲物をねらうハンターと同じようにこの世から消え去ってしまえば、自然に対するさまざまな誤解もなくなっていたのにと思う。
(…略…)
自然界には平安も安息もほとんど見当たらないと結論づけたとしても、それは無理もないところがある。わたしたちの日々のニュースもどうだろう。新聞の第一面には、暗澹たる運命の結末と悲観的な観測記事がでかでかと載る。それを読んだだけで、自分の家を強盗が押し入ろうとして見張っているのではないか、子どもは登校中に誘拐されるのではないかとついおびえてしまう。
しかし、あなたの心をむしばむこうした恐怖や不安は、実際の状況から見るとかなり的はずれになる。
(…略…)
同じことはチータはガゼルにも言える。自然は喧伝されているほど過酷すぎはしない。ガゼルは、わたしやあなたと同じように、たった一度死ぬだけだ。その死というのも、この世界に生まれてからずっと生きてきた時間と比べると、おそらくあっというまのできごとになる。
(…略…)
動物たちは死を迎えるまで、数十日、数百日、数千日の生を受けて、自然のもとで暮らしているのだ。途中でむやみに生命を脅かされることはほとんどないだろう。 (…略…) 特に、弱々しい子ども時代を無事通りぬけた個体は、おおむね長い平和な生活を送る可能性がある。恐怖や苦しみ、または死の瞬間は必ずあるだろうが、その瞬間を迎える前には、ゆったりとした生活やその喜びをたくさん経験しているはずなのだ。
マスメディアは、野生の動物は厳しいばかりで喜びのない生活を送っているというステレオタイプのイメージを当然のように押しつけてくることが多い。 (…略…) ほとんどすべてのホッキョクグマがおとなになる前に死ぬ現実を知るのは悲しいが、人間がその状況を環境汚染によってされに悪化させているのはさらに恥ずかしい。それでも、六ヶ月の子グマが母親グマに守られて、乳を与えられ育てられているときは、一〇〇回をはるかに超える日の出と日没を経験し、命のはかなさを嘆いたりするひまはない。それぞれの生き物の日々は、たとえ短く終わるものだとしても、いのちの経験は断然すばらしいことなのだ。
リアル物心がついた頃から犬がいる家庭で育っています。
色々な個体にせよ同じ犬でも性格が違うんですよね。
こないだまで飼ってた雑種オスは少しやんちゃでおっとりさん。その雑種が老衰で亡くなったあと追うようにして低体温で亡くなった7歳のビーグルは優しい女の子で凄くよく笑う。相棒が亡くなったら寂しくなったのか翌月亡くなりました。犬でも寂しいとか悲しいとかあるんだと思います。
今うちにいるワンコはチワワ。
彼は7才でマンガに出てくるブラック大魔王の飼い犬ケンケンをチワワにした感じ(笑)
性格がそっくり笑あまり可愛い性格じゃないけどそこが可愛い。
キャッチーで面白い本でした。
で、今はそこからちょっととっつきにくい関連本まで手を広げて何冊か読んでます。
今日もまるまる仕事だったというのに……。ま、でもこれもエネルギー補充だからいいか。
そう、犬と人間は長い時間を一緒に進化してきたせいかお互いに心を認め合えるようなところありますよね。種が違うのに、個体差とかもけっこうわかる。長い共生の歴史の間で、ある程度、お互いの身体言語的なものも共有してる気がします。
ってなると、似たような(似てないか?)ハゼとテッポウエビとかの間にも愛着のようなものが発生したりすることはあるのか?とかつい考えたりして……でも、たぶん、必要に応じて人には人の知性が、動物には動物の知性があるように、感情も種によって全然違う形をとっていて、なかなか擬人化では本当のところは捉えられないんでしょうね。
擬人化では捉えられないし、共通の言葉もないけれど、それぞれの種にはそれぞれの種固有の、人間の理解を超えた心も喜びも感情の動きもあると考えると、いきなり地球が賑やかな感じがして、生きてるのがなんとなく楽しくなります。
人間以外の動物には心があると証明できない(という学者もいる)って話になると、自分以外の他人に心があるとも証明できないって話にもなっちゃいますよね。
なんて、今週仕事で外国からのお客さんとミーティングしながら、そんな全然仕事に関係ないこともチラッと考えたりしてました(←外国語苦手で意思疎通感が少ないせい……議題に集中しろって感じですが)
この本、読みたい!すごく、読みたい!
macchiさんが紹介しなければ、絶対手に取らない「題名」と「表紙」なので、感謝です。
僕も、例えば「プラナリア」は世界を一体どう認識しているのだろう?と想像したりしています。
「脳」も無いのに、エサを襲ったり、苦痛に身を捩ったり・・・
「思考」は無くとも「意志」を感じます。
macchiさん、(BLOGでしか知りませんが)仕事、読書、旅行、料理、DIY等々、全ての面で尊敬しております。
それでは。
私も偶然手にとったんですが、立ち読みしたら面白くて買っちゃいました。ちなみに買い込んだのは、統計本、西部劇本、刺繍本です。なんか脈絡が全然無いですね。
しかし西部劇本も大当たりで、今、心がややマッチョになっています。
尊敬は無しでお願いします。
挙げていただいた項目も、私は特段やれてないですよ。
おそらく気ままに書きたいことだけ書くブログでは、ダメな部分、全体のバランスというのは伝わらないのでしょう。ちょっと怖いとこですかね。
たぶん実際に会ったら、時間を守れ!社会の窓は閉めろ!って、尊敬を失われるタイプだと思います……。
> 薪の炎 さん、
時と場合によっては人間より強い感情が働く、本当にそれはありそうに思います。未来に描ける選択肢が人間より少ない分、その瞬間の痛みを遠い未来に起こりうることとバーターで相殺することとかは難しそう。
人間の子供を見ても思うことがあるんですが、大人だったら、経験からして時間薬があるからとか思って耐えられることでも、子供にとっては今が永遠みたいで耐えられないってことあるんだろうなとか。
逆に、人間だと大仰な言葉や想像で感情を増幅させる自家発電的な面もあるので、そういう面では動物の方が淡々と、事実に即した大きさの感情でいろんなことを受け入れられる時もあるのかもとも(まあ、群れでパニック増幅とかもありそうですが)。
「悲簾」は知らなかったです。綺麗な曲ですね。
上のコメントにも書きましたが、今、ちょっと心がマカロニウェスタンに傾いていて繊細な曲に対する感受性が低い状態なので、リストに入れておいて、気分が変わったときに聞きたいと思います。今はハモニカ吹いてますが(Once upon a time in the westのブロンソンの真似)、またピアノも弾きたいです。情報ありがとうございます。
私は、息子に付き合って粘菌の実験をしてたんですが、何食べるか何嫌いかから始まって、
必ず置き場所を突き止めてエサにありつくのを見て、寒天床に山や迷路作ってだんだん意地悪しても
頑張ってみつける。
最後は、爪楊枝突き立てて、鳥の餌箱さながら中空に仕込む意地悪をして、探し回る様子を
見ていたら、とうとう爪楊枝を登り始めて発見した瞬間、見つからなかった結末とは違う
何かがあるはずって思いましたもん。
単細胞でそうなのだから、って思いますねえ。
自分の感じたことを発展させるヒントがありそう♩探してみますっ。
私は粘菌の動きを見ると、トライ&エラーを繰り返しながら分岐を拡散して・収斂してっていう感じが、コンピュータに総当たり計算をさせてる時の感じにちょっと似てるなと思っちゃって。
これって意志なのかな、アルゴリズムなのかなって思ったりしました。
で、細胞一つ一つはかなりマシン的なものなんだろうけど、それが集まることで、いつから・どこに・心が宿るんだろうって考えたりしたんですが……。
でも、africajさんは粘菌から心みたいなものを感じたんですね。なんか面白い。単細胞に心が宿るなら、私たちの内臓パーツや成分にも心が宿るのか?そしたら、もしかしたら機械や情報ネットワークにも心が宿るかもですよね。
宿ってないとは言い切れない、人には見えない色もあるし聞こえない音もあるし、この世は普段自分が思っているのとは全然違う風でもあり得るって感じると、たまに変な気分になります。変な気分好きです。