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2016年 02月 13日
ゆきてかえらぬ
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目が覚めたけど、なんだか薄暗い。

窓を開けたら雨が降ってた。けど、全然冷たくない。そっか、今日って4月並みの暖かさになるとか言ってたっけ。こんな変な天気の日って、なんかワクワクする。

すぴーすぴー、むう、すぴーと安らかな寝息をたてている夫を起こさないよう乗り越えてリビングに行ったら、既に末っ子が起きて外を見ていた。今日は暗いね、雨の日って静かだよね……とか話しながら、変な空気を肌で感じるために庭に出る。足元で、今年初の福寿草が濡れて咲いてた。空気もザワザワして妙に生温く、優しい感じの霧雨で、植物たちが喜びそうだ。菜園でタイムをちょっと摘んで、末っ子と一緒に朝食のピザを焼く。そして皆を起こす。
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朝食後。
末っ子に散歩行こうかと誘ったけど、今日は家で本を読んだり遊んだりしてるという。夫も今日は寝てるという。

それで一人でサイクリングに出た。午後は快晴。2月なのに23℃超えという暑さで、空は真っ青。上着も全部脱いでTシャツになって、ズボンをまくって自転車を漕ぐと、皮膚の上を暖かい風が流れて行って、ものすごく気持ち良い。せっかく一人だし、でたらめに知らないところに行ってみようと思い、上水や川をどんどん辿って行ったら、河津桜が咲いてるところがあった。土手にはフキノトウも出てる。うわー、春だなあ。
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途中、見知らぬ長閑な公園でザリガニ捕りしてる子供にザリガニの巣の探し方を教えてもらったり、喫茶店で水分補給したり、小さな自然観察園みたいなところで在来生物の水槽を眺めたり、行き止まりの多い住宅地の細い路地でジグザグしたり、畑の広がる平らな場所を通り抜けたりして、良い感じに迷子になったところで、ざっくり方向転換して自宅方面に戻らんとす。たぶん、おそらく、こっちが家だと思うんだ……。

そうして、お日様の位置がだんだん低くなって影が伸びて、光が赤みを帯びた黄色になって来たところで、周りがなんとなく知った風景に変わり、夕方には無事に家に着いた。日が長くなったなあ。

迷子中って、行き交う人たちの言葉も一枚膜をかけたように聞こえたり、自分がどっちに進んでるのか東西南北を見失ったりして、いきなり周りの景色が曖昧化する。そのくせ肌にあたる風の感触や、木の枝の細かな造形、流れてくる音楽なんかは、逆に妙にハッキリ迫って来たりして。なんとなく夢の中と共通する感触がある気がする。

そのせいか、迷子から脱する時は、夢から醒める時の気分に少し似てる。安心するけど、ちょっとだけ名残惜しい。
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迷子から醒めなかったら、どうなるか?−−向こう側に行きっぱなし。

『在りし日の歌―中原中也詩集』

中原中也の「ゆきてかへらぬ」なら、ちょっと甘い。

迷子の時、空気の中に蜜があるのを、私も感じる。
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺っていた。

木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停っていた。

棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であった。

さりとて退屈してもいず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常住食すに適していた。

(中略)* * *

林の中には、世にも不思議な公園があって、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情していた。

さてその空には銀色に、蜘蛛(くも)の巣が光り輝いていた。


一方、ボウルズの迷子は悪夢っぽい。

『優雅な獲物』(ポール・ボウルズ)

ボウルズのこの短編集の中身は、行って戻れなくなった主人公の物語ばかりだ。迷子になるのは、いつもアメリカの知識層の男性(またはそれに類する何か)。行く先は、アフリカ的な呪術と混沌に満ちた地。そこでは人々は男とは違った話法で話し、行動する。そしてその混沌の中で迷った男は、もう二度と、馴染みの明晰な世界には戻れない。

どの短編もほぼ同じテーマを扱っていたけれども、一編だけ『学ぶべきこの地』は、女性主人公がアフリカからアメリカへと出て行く物語で、逆方向の行きて戻らぬ物語なのが珍しい感じがした。「学ぶべきこの地」っていうのが、主人公マリカが学ばなくてはいけない、アメリカ世界のこと。

ボウルズがよく書く明晰から混沌への迷子ストーリーには、胸苦しくなるような切迫感があるけど、『学ぶべきこの地』の混沌から明晰への迷子という逆ルートの物語だと、あんまり圧迫感はなくて、むしろ虚脱感がある。つまり混沌側には残酷と恐怖があり、明晰側には虚無があるのかも。

アメリカに渡った主人公マリカは思う:
何週間もの間、彼女は町の人々の生活ぶりを眺めていたが、いかなる法則も見出すことができなかった。人々はつねにどこかへ行く途上であり、急いでいた。彼らがみな似たりよったりだと思いこむほど愚かではなかったが、それでもだれがだれなのかを知る手立てはなかった。モロッコでも、ヨーロッパでも、一方に忙しくしている人がいれば、もう一方にそれを眺めている人がいるはずだった。いつもだれかがなにかをしているときには、必ずその観察者がいた。アメリカではだれもがどこかへ行こうとして、だれもそれを坐って眺めてなどいないという印象がした。このことが彼女を混乱させた。彼女は自分が旧知のあらゆることから遠くに、限りなく遠くにあるような気がした。

『優雅な獲物』を読むと、混沌側の人間は学ぶことで明晰側に来られるけど、いちど明晰側に渡ってしまった人間は、どこかを壊さないでは混沌側に行くことはできないんだと思わされる。(まあ観念的な話で、実際はそうとも限らないよなと思うけど)

こういう強いエキゾチシズムって、ボウルズ自身の人生の反映(アフリカに渡って、戻らなかった)ってのもあるだろうけど、白人文学には似た感じのものをしばしば見るように思う。西洋から見た西洋以外の世界って、こんな風に混沌としていて、動物的で、恐ろしくもあり嫌でもあり強烈に惹きつけられたりもするものなのかもしれない。日本もちょっと前なら、主人公側じゃなくて、混沌側の世界だったかな?

現在の自分がいるのは、混沌側の世界ではないなと思うと、ちょっと安心する。でも一方通行の終わり側にいると思うと、ちょっと残念だ。迷子になった時に、迷子を終わらせようとはしてるんだけど、もっと続いて欲しくもあるのと似てる、かも。



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by macchi73 | 2016-02-13 23:55 | 書籍・CD | Comments(3)
Commented by 薪の炎 at 2016-02-17 23:53 x
どんなに近いところでも知らない路地、初めての横丁に踏み入れ、そこで見聞きしたことに心を動かされればそれはもう旅であるなんてべたな言い回しを聞いたことがあります。そうだとすればこの度のサイクリングはmacchiさんにとって旅そのものだったんでしょうね。「迷子中って・・・・・・・・・・・・・・・向こう側に行きっぱなし」といったあたりの文章はちょっとした紀行文的な雰囲気がありますもの。macchiさんの文才が感じられます。少し前のことになりますが私も自分の住んでいるすぐ近くながらほとんど出掛けたことがないあたりを自転車で散策したことがあります。そのとき畑の中に樹木に覆われた高さ4,5mほどの小山が目に入り、後で調べたら小さな古墳だとわかりちょっとした感動を覚えたものです。ほとんど無名な遺跡でしたが思いもよらない発見でした。まさに旅でした。さて福寿草ですがうちでも毎年咲いていたのですがここ数年は芽が出なくなり消滅しちゃったみたいです。やはり植え替えや株分けなど何らかの処置をしないとだめなようですね。それではまた。

Commented at 2016-02-18 14:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by macchi at 2016-02-22 19:31 x
そうそう、ひっそり地味な古墳、意外とありますよね!私と夫もサイクリング好きで、隠れた古墳、お墓、見つけて「へえ」ってことたまにあります。北関東に、もしかして多いのかな?

何かよく分からないけど気になるものを見つけ心に留めるともなく留めておいて、後で「あ、あれが」って分かる時、楽しいですよね。逆に、前に何かで見聞きして記憶していたものを思いがけず見つけた時も、「あ、これが」って、不意を突かれる感じで面白かったり。

だから、いつも全て調べて解決して……っていうほど熱心でもなく、目的以外は何にも気に留まらないほど急いでもなく……くらいの散歩楽しいかも。たまに迷いつつ。

福寿草は、水の管理が少し難しいみたいですね。
うちだと、日当たりの良い広場では数年で消えて、少し湿った感じの落葉樹の下でご機嫌にしてます。でも分かんないですね。たまたまかも。


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