「ほっ」と。キャンペーン
2015年 11月 06日
卵のように軽やかに
e0134713_22141414.jpg

庭隅にレモンが鈴なりだ。収穫して肉と焼いて食べた。

我が家のレモンは、グランドレモンという品種(マンダリンとの交配種らしい)。
味は、酸っぱさの中にもなんとなく甘さがあって美味しい。レモンっぽくない滑らかな薄い皮をしていて、大きさは普通のレモンより少し大きく、形はレモン型ではなくて卵型をしている。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

卵型つながりで?

このところずっと夜は一人で過ごしていて手持ち無沙汰なので、『卵のように軽やかに』を始め、エリック・サティに関連する本を何冊か続けて読んだ。


サティが書いた文章やイラストを集めたアンソロジー。表紙もサティの自画像。

サティの文章って、面白いんだけど、わざとひねくって剽軽に書いてて、なかなか正体が見えにくい感じ。

手描きイラストの方には、ヘンテコなおかしみがある。イラスト中に書きつけられているテキストも面白い。



その中で、一番面白かった一冊は、サティが描いた装飾的な楽譜を頁にそのまま散らしてある『エリック・サティ詩集』。

『エリック・サティ詩集』(藤富保男訳編)

すごくかわいい感じの中身で、サティって子供っぽい人だったんだろうと感じられた。肉筆楽譜のページが多くて、サティを身近に感じられる。楽譜の隣に、装飾的な絵のような文字で文章が書きつけてあったりする。

文書だけまとめて読んだ時はそれほどには面白くなかったサティが、手描き楽譜が入ると、何故かいきなり面白い(または、翻訳がすごく良い)。それと、訳者の藤富保男氏が挿入する小文やカット、各ページのレイアウトがとても良い。

読みながら笑って、ほのぼのした。



次いで面白かったのは、いろんな切り口からサティを紐解いた、アンヌ・レエの『エリック・サティ』。これは本としての内容が面白い。



サティの死後、彼が一人暮らししていたガラクタだらけの部屋で見つかった葉巻箱の中には、きちんと切り抜かれた小さな紙片がいっぱい詰まっていて、綺麗な色インクで縁取りされ、いろんな絵や文章が書きつけてあったらしい。

それがあのヘンテコなイラストとかなのか……と思うと、なんとも言えない気分になった。

本の中では「こんな無意味にサティがどんな悦びを見出していたのか、よく分からない」なんて言われてしまってもいたが、いやあ、ひとりぼっちで暇だとそういうのやるよな……やるよ……とか思ってしまった。

ちなみに私も一人暮らしの頃やらかした。そして何を思ったのか、恥ずかしいことに一人のクラスメートに見せた……とても活発かつ外向的な友人だったので、多分、意味がわからなかったことだろう。大人になってからは海外のリゾート地で暮らすその友人に、今週 7, 8年ぶりくらいに会って、相変わらずのピカピカで力強い笑顔を見ては、ちょっとその事を思い出したり。



「夜になると、彼らは夕食をとり、それから浜辺に出てパイプをふかすのだった。煙草の香りが魚たちにくしゃみを催させた。ロビンソン・クルーソーにとって、無人島の暮らしは楽しくはなかった。『ちょっとさびしすぎるな』と彼はいう。少年のフライディもおなじ意見だった。主人に向かってこういうのである。『そうです、旦那さま、無人島、ほんとにさびしすぎる。』そして、その大きなまっ黒な頭を振ってうなずくのだった。」

こんなさびしい小文を誰が書いたのか? 有名なエリック・サティである。死の一年前に。真の友もなく、子もなく、ただ有名ではあったサティ。(...略…)

しかし、サティも楽しくはなかったにちがいない。彼の無人島での暮らしは −− アルクイユのサティの部屋、二十七年間住んでいたが、彼の存命中は誰ひとり足を踏み入れることのなかった「象牙の塔」での暮らしは。サティの死後、不透明になった窓ガラスや、クモの巣や、壊れたピアノの蓋の下に隠された紙クズや、そのほか山のようなゴミや虫が発見された。(...略… )

「無人島は、時にはちょっとさびしすぎる」から、サティはひそやかに嘆き声をもらした。あるときは言葉で、またあるときは音楽で。


それから、ジャン・コクトーによるサティについての本。
翻訳者が安吾で、ちょっと驚いた。そんな時代か。


コクトーには、いかにも時代の寵児って感じの華があって、サティについて書いても、コクトー色の方が勝つ。これはサティの本というより、コクトーの本だな。多分、コクトーが表現したい思想があって、それにサティがぴったりだったから、担ぎ出したって感じもあるだろう。

ピカソ、コクトー、サティで舞台をやったりして3人は交流があったようだけど、堂々と煌くピカソとコクトーに比べ、サティはどうしても垢抜けないショボい感じが漂う気が……。



そのサティの多少のショボさを感じて、町田町蔵の『壊色』という本にある「ふぬけの悲しみ」という短文を思い出したりする。
 みんなはふぬけについて考えないか。
 僕はつい考えてしまう。
 ふぬけというものはどういうわけか公園に一人でいることが多い。そして公園には小学生くらいの子供が遊んでいる。ふぬけは思う。「私は子供らと遊びたい。(...略…)」そしてふぬけはパン屋に走ってつまらぬ駄菓子を大量に買い、子供に与える。しかし子供はそんなものに喜びはしない。そこいらに投げ捨ててどこかへ行ってしまう。ふぬけは駄菓子の散乱する人気のない公園に一人、しょんぼりと立っている。ふぬけは小声で言う「どうもうまくいかんね」ロマンチックな音楽が流れている。 
 このようにあらゆる局面において現実はふぬけを打ちのめす。そしてふぬけはしょんぼりする。そして言う「どうもうまくいかんね」そのときふぬけの口は尖っている場合が多い。しかしふぬけ本人はあまり気にしていない。あくまで見た感じしょんぼりしているのであって、それはふぬけの意識とは無縁である。ただふぬけの心の奥底がどうなっているかはわからない。このしょんぼりは僕には相当こたえる。見ておられぬものがある。ということはその心の奥底にははやり奇怪な悲しみが蠢いているのではないだろうか。

そうやって、昔に生きてた人たちの様子を読んで、不思議な感じに浸る。
ふざけたり怒ったり皮肉ったりして素の自分を韜晦してた、ひとりぼっちのショボいサティの姿が目の前に浮かび上がって来るような気がした。ま、本当にそんな人だったかは、分からないけど。想像。

でも、130年も前の狂乱の芸術の都パリの汚い部屋でひとりぼっちで暮らしてた作曲家がいて、そこから時間も場所も遠く離れた東洋で、ピアノ素人がその曲をポロンポロン弾くことが起こるってのは、妙な感じだ。人間って、記録を通じて時空を超えられるところが、他の動物と違うところかも。

サティが「家具の音楽」として発案した”意識的に聴かれることのない音楽”っていうのが、その後のアンビエントやミニマル、BGM系の音楽へと繋がっていったということだ。サティの曲をもう少し弾いてみたかったけど、近所に楽譜がなかったので、替りにルドヴィコ・エイナウディの曲を弾いてる。イージーリスニング、イージープレイング。


amazon.co.jpで調べる

[PR]

by macchi73 | 2015-11-06 23:55 | 書籍・CD | Comments(0)


<< シダクロスズメバチ(シダ黒雀蜂)      ハロウィンのお菓子 >>